А11:改めてキリール文字で日本語を書く
さて、ここまで学んできたロシア語の文字と発音との関係を踏まえて、改めてキリール文字で日本語をどう書くかを考えてみよう。
ロシア語の発音について身につければ、ポリヴァーノフ式の問題点も見えてくるだろう。
あ а | い и | う у | え э | お о |
か ка | き ки | く ку | け кэ | こ ко |
さ са | し си | す су | せ сэ | そ со |
た та | ち ти | つ цу | て тэ | と то |
な на | に ни | ぬ ну | ね нэ | の но |
は ха | ひ хи | ふ фу | へ хэ | ほ хо |
ま ма | み ми | む му | め мэ | も мо |
や я | ゆ ю | よ ё | ||
ら ра | り ри | る ру | れ рэ | ろ ро |
わ ва | を о | |||
ん н | ||||
が га | ぎ ги | ぐ гу | げ гэ | ご го |
ざ дза | じ дзи | ず дзу | ぜ дзэ | ぞ дзо |
だ да | ぢ дзи | づ дзу | で дэ | ど до |
ば ба | び би | ぶ бу | べ бэ | ぼ бо |
ぱ па | ぴ пи | ぷ пу | ぺ пэ | ぽ по |
きゃ кя | きゅ кю | きょ кё | ||
しゃ ся | しゅ сю | しょ сё | ||
ちゃ тя | ちゅ тю | ちょ тё | ||
にゃ ня | にゅ ню | にょ нё | ||
ひゃ хя | ひゅ хю | ひょ хё | ||
みゃ мя | みゅ мю | みょ мё | ||
りゃ ря | りゅ рю | りょ рё | ||
ぎゃ гя | ぎゅ гю | ぎょ гё | ||
じゃ дзя | じゅ дзю | じょ дзё | ||
ぢゃ дзя | ぢゅ дзю | ぢょ дзё | ||
びゃ бя | びゅ бю | びょ бё | ||
ぴゃ пя | ぴゅ пю | ぴょ пё |
最大の問題点は、「ヨ」の段である。これを ё という文字に置き換えると、ロシア人は必ずここにアクセントを置いて読む。アクセントのある母音は長めに発音されるから、つまりは常に「ヨー」と発音されることになる。
もうひとつ、印刷物などでは ё と е は区別されない。つまり ё という文字は使われず、常に е と書かれる。「調布」を「テーフ」と発音するロシア人に会ったことがあるが、あれは「調布」を Тёфу と書いた弊害である。印刷物では Тефу と書かれるから、「テーフ」(より厳密には「チェーフ」と表記すべきだろうか)と発音されてしまうのである。
この問題の解決法は存在しない。なぜならロシア語にはアクセントのない「ヨ」という発音そのものが存在しないからだし、印刷物における慣習にはわれわれは口を出すこともできない。
苦肉の策として、ио でごまかす、という手がある。東京を Токио、京都を Киото と書いたりするのがそれである。しかし当然、この方法では「イオ」との区別ができなくなる。「虚子」と書いたつもりなのに「キヨシ」と発音されてしまう、ということになる。
й を使うという禁じ手もあり得る。横浜 Йокогама がそれだ。しかしこれは子音の後に使うことができない。子音+й というスペルはあり得ないからだ。
実例としては目にしたことがないが、子音の後であれば ь を使うという手もあり得るだろう。すなわち、нё や нио ではなく、ньо にするのである。
このほかの問題についても見ておこう。
促音「ッ」は、母音に続く子音字をふたつ続けて書くのが一般的である。これは音声学上は二重子音ないし長子音の発音になるが、問題は、ロシア語では長子音の発音に関する規則が存在しないことである。つまり、たとえば「一茶」を Исса と書いたとして、必ずロシア人が「ッ」を発音してくれるとは限らない。
日本語は二重母音と長母音との区別が曖昧だが、「アイ」や「オイ」は二重母音として発音しているだろうし、「イイ」や「ウウ」、「オオ」などは長母音として発音しているはずだ。それに加えて、現実問題としては「エイ」や「オウ」も長母音で発音することが多いと思う。たとえば、「映画」は「エイガ」ではなく「エーガ」、「応答」は「オウトウ」ではなく「オートー」、といった具合である。
ロシア語には二重母音は存在しないが、「アイ」や「オイ」は аи や ои よりも ай、ой と書いた方が、それっぽく発音してもらえる。Аико をロシア人はまず間違いなく「アイーコ」と発音するが、Айко であれば「アイコ」と普通に発音してくれる。
「オウ」をラテン文字で ou と書く人がいるが、それをロシア語でやるとおかしな発音になる。「太郎」のつもりで Тароу と書くと、おそらく大抵のロシア人は「タローウ」と発音する。「毛利」のつもりで Моури と書くと「モウーリ」と発音される。「毛利」などは、いっそ Мори と書いた方がそれっぽく発音してもらえる。ロシア人は о にアクセントがあると思うから、「モーリ」という発音になる。もっとも、そうすると「森」と区別ができなくなるわけだが。逆に言うと、「森」を「モリ」と発音するロシア人はいない。「大野」を Ооно とか Оуно と書こうものなら、「オオーノ」とか「オウーノ」などと発音されてしまう。Оно と書けば「オーノ」と発音してくれるが、これでは「小野」と区別がつかない。逆に「小野」はどうあがいてもロシア人には「オーノ」と発音されてしまう(と言うより、ロシア語の三人称の代名詞と勘違いされて「アノー」と発音されるかも)。
当然、ロシア語に存在しない発音は、キリール文字での表記が不可能である。代表格が /w/ である。この音を表す文字がキリール文字には存在しないので、в の文字で代用する。当然発音も /w/ ではなく /v/ である。「川崎」は Кавасаки と書くしかなく、「カヴァサーキ」と発音される。
最後に、「ん」の後の母音について。
たとえば「健一」という人名をラテン文字で Kenichi と表記してしまうと、「ケニチ」と読まれてしまう。日本語では当たり前に切り離して発音している「ん」の後の母音が、英語やフランス語などを話している人たちには続けてしか発音できないのだ(少なくとも、文字で表記することができない)。
この点、ロシア語は簡単である。硬音記号 ъ を挟めばいいのである。
- 健一 ⇒ Кэнъити
- 観阿弥 ⇒ Канъами
- 禁欲 ⇒ кинъёку
- 暗雲 ⇒ анъун
- 民謡 ⇒ минъёу
いずれにせよ、「日本語はキリール文字でこう表記しなければならない」などという規則は存在しないので、よりロシア人が発音しやすいスペルを自分なりに開発すればいい。
このように、日本語をキリール文字で表記する、というのは、実はロシア語の発音をきちんと理解していないとまともにはできない。その意味で、むしろある程度ロシア語ができるようになってから改めて、以前に行った日本語のキリール文字表記に挑戦してみることをお勧めする。