リューリク家人名録

キイ

Кий

キエフ公 князь Киевский

生:?
没:?

父:?
母:?

結婚:?

子:?

素性不詳。文献上、ルーシの地最初の君主。もっとも、後世の聖者伝などに記された伝説では、キイ以前か?、とも思われる存在もあるが。
 弟にシチェク Щек とホリフ Хорив、妹にルィベディ Лыбедь がいた。

 キエフという固有名詞は、10世紀前半に始めて文字史料に登場する(アル=イスタフリ、キエフ書簡、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトス)。少なくとも10世紀前半までにキエフが誕生していたのは確かである。しかも、アル=イスタフリによればキエフは交易で栄えていたようだ。キエフ書簡によれば、そこにはハザール人のユダヤ教徒コミュニティがあった。コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスによれば、全ルーシが集結する砦であった。すなわち、10世紀前半においてすでにキエフはルーシの中心都市であったということになる。常識的に考えれば、キエフという都市の存在そのものは、少なくとも9世紀にまで遡ることができると見ていいだろう。
 考古学的には、10 000年以上遡ることのできる遺跡が発掘されているそうで、以来、旧石器時代、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代それぞれの遺跡がキエフ周辺から出土している。ただし、キエフそのものにおける集落的痕跡は、880年代、つまりオレーグより以前ではないとの見解もあるそうだ。だとするとキイはおろかアスコリド & ディールすら否定されてしまうが、キエフそのものの成立がいつだったか考古学的には確定できていない、というところらしい。

アル=イスタフリは10世紀前半のペルシャ人旅行家。930年頃に『諸道と諸国の書』を著した。
 キエフ書簡については下で詳述。
 コンスタンティノス・ポルフュロゲネトス(905-959)はビザンティン皇帝(945-959)。950年前後に『帝国の統治について』、その後に『宮廷の儀式について』を書いている。前者でルーシについて、後者でオリガとの会見について述べている。

 ノーヴゴロド第一年代記には以下のような記述がある。

古代、ローマ(ロムルス)という皇帝がおり、その名にちなんでローマという都市が名付けられた。同じく、アンティオコスにちなんでアンティオキア、同じくセレウコスにちなんでセレウキア、同じくアレクサンドロスにちなんでアレクサンドリア。多くの土地で、都市はその王や公の名をつけられた。同様に、我が国でも大公の都市はキイの名にちなんで名付けられている。キイというのは渡し守、あるいはキエフ近くの狩人だった。……(中略)……。
 6362年(853-854)。ルーシの地の始まり。誰もが自分の一族とともに自分の土地や国に住んでいた。三人の兄弟がいた。ひとりはキイという名であり、ふたり目はシチェク、三人目はホリフ、その妹はルィベディといった。キイの住んでいた山はこんにちボリチェフといい、ここに自分の一族とともに住んでいた。弟シチェクはかれにちなんでシチェコヴィツァと呼ばれた別の山に、三人目のホリフからはホリヴィツァの名が起こった。そして長兄の名で都市を建て、キエフと名付けた。近辺には広大な森林と獣の狩場があった。ポリャーネと呼ばれていた賢く頭が早い人々は、今日までかれらにちなんでキエヴリャーネ(キエフっ子、キエフ市民)と呼ばれている。かれらは異教徒であり、他の異教徒と同じく、湖や井戸、植物に生け贄を捧げていた。
 この時代、ギリシャの地にはミカエルという皇帝と母后エイレーネーがいた。エイレーネーは復活祭の最初の週にイコンの崇拝を宣言している。この時代、ルーシが船でコンスタンティノープルへやって来た。無数の船で、うち200艘が金角湾へと入り、ギリシャ人に多くの害悪とキリスト教徒に殺害をもたらした。皇帝と総主教フォティオスは聖母教会で一晩中祈りを捧げた。さらに聖母の衣服を持ち出し、その裾を海にひたした。その時静寂が訪れ、すぐに嵐となった。ルーシの船は転覆し、ルーシを岸辺に投げ出し、かれらは故郷へと戻っていった。
 この後の年、兄弟は死んだ。そしてポリャーネ人はドレヴリャーネ人やほかの隣人たちから侮辱された。……。

皇帝ミカエルとはミカエル3世(840-867)。ビザンティン皇帝(842-867)。
 エイレーネーとは、おそらく女帝エイレーネー(752-803)。ビザンティン帝国最初の女帝で(797-802)、イコン崇拝を復活させた。ただし、彼女はミカエル3世の母后ではない。ミカエル3世の母親はテオドラ(-867?)。彼女の夫(先代の皇帝)テオフィロス1世が最後のイコン反対派だったので、その死後、イコン崇拝を復活させた。おそらくそのために、年代記作家がこの両者を混同したのだろう。
 フォティオスはコンスタンティノープル総主教(858-867、887-886)。ミカエル3世により総主教に。ローマ教皇と対立してキリスト教東西分裂の端緒を開いた。年代がはっきりしている文献の中で最初に «ルーシ(ロス)» という言葉を使った。

 『原初年代記』はルーシ最古の文献とされているが、基とした先行史料はノーヴゴロド第一年代記とおそらく共通であっただろうと想像される。

ポリャーネ人は当時、別に暮らしており、自らの一族を支配していた。なんとなればかの兄弟以前にすでにポリャーネ人はあって、自分の土地に一族で住んでいた。三人兄弟がいた。ひとりはキイという名で、ふたり目はシチェク、三人目はホリフといい、妹はルィベディといった。キイは、こんにちボリチェフのある山に住み、シチェクはこんにちシチェコヴィツァと呼ばれる山に、ホリフはホリヴィツァと呼ばれた別の山に住んでいた。かれらは長男に敬意を表して都市を建て、キエフと名付けた。……(中略)……。キイが渡し守であったと知らずに言う人がいる。当時ドニェプルの向こう側からの渡しがあり、ゆえに『キーの渡しへ』と言われていたのだ、と。キイが渡し守であったならば、コンスタンティノープルへは赴かなかったであろう。このキイは自らの一族に君臨し、皇帝のもとに赴いた際には皇帝から多大の敬意を表された。戻るに際して、かれはドナウへ赴き、そこが気に入ったので小さな都市を建て、一族とともに住もうとした。ゆえにこんにちでもドナウ沿岸の住民はこの小都市をキエヴェツと呼んでいる。キイは自らの都市キエフに戻ると、そこで死んだ。またシチェクとホリフ、妹のルィベディもそこで死んだ。
 これら兄弟の死後、その一族はポリャーネ人への支配を維持した。……。

 キイ、およびシチェクとホリフについて、«公» という言葉は使われていないが、『原初年代記』が「一族に君臨した」と述べていることから、実質的に公であったと見ていいだろう。ただし、これら基礎史料を基本的に史実だとみなす «実在論者» が一方にいれば、他方にはこれらのエピソードをまったくの空想と片付ける «非実在論者» もいる。

 『原初年代記』は、12世紀初頭当時すでにこの伝承がかなり流布していたことを示している。『原初年代記』とノーヴゴロド第一年代記を比較すると、それまでに流布していた伝承の骨格は次のようになろう。

 第一点については、『原初年代記』が反発しているが、これは次のように理解することもできよう。すなわち、ドニェプルの渡し守ということはドニェプルの一方から他方への交通を牛耳っていたということである。キエフが農村ではなく交易の拠点として発展した以上(アル=イスタフリ以降のイスラーム系史料はすべてキエフを交易都市として描いている)、そのような立場にあったキイがキエフの支配者になったとしても必ずしも不思議ではない、とは言えるのではないだろうか。

 シチェコヴィツァはこんにちシチェカヴィツァと呼ばれる山で、キエフ郊外に実在する。ホリヴィツァもキエフ郊外にある丘陵地帯を指す。さらにルィベディは、ドニェプルの支流である。それぞれ人名にちなんで地名が名付けられたのか(それが史書の主張するところであるが)、それとも地名にちなんで人名(とそのエピソード)が考え出されたのか(非実在論者の主張するところである)、確定的なことは言えない。
 これはキイとキエフの関係についても言える。伝承の眼目は、キイがキエフを建設した、ということにあるが、キイの渡し場が交易の拠点となり、それが集落へ、都市へと発展していった、というところであろうか。しかし、ピョートル大帝がサンクト・ペテルブルグを建設したような、一個人が都市を建設するというのはあまりあることではない。この伝承は、すでに存在する集落を発展させた、と理解することもできるだろう。そもそも、こんにちのロシア語で都市を意味する город は語源的には英語の garden や yard に相当し、「囲われた土地」という程度の意味であり、おそらく当時のルーシ語ではせいぜい「砦」を意味していたと考えられる。とするならば、キイの渡し場が砦になった、というだけでもこの伝承は正しいことになる。であるならば、キエフという都市の建設そのものがキイと無関係であることを実証したとしても、あるいはキエフという都市の誕生が10世紀であったとしても、それがキイの実在を否定することにはならない。

 皇帝ミカエル3世と総主教フォティオスの時代にルーシがコンスタンティノープルを襲撃したのは、ビザンティン側の種々の史料から史実と認められる。フォティオス自身もその事実を書き残しているが、諸史料から、襲撃は860年のこととされている。
 問題は、ビザンティン側の史料には、ルーシの指導者の名は記されていない、という点にある。それどころか、『原初年代記』では、この襲撃はアスコリドディールが指揮したものと記されている。このことから推測されるのは、そもそもルーシの側には、860年のコンスタンティノープル襲撃の記録が残っていなかったのではないか、ということだ。だからノーヴゴロド第一年代記の作者はその指揮者をキイと、『原初年代記』の作者はアスコリドディールと考え、それぞれの項目に挿入したのであろう(もっとも、厳密に言えばノーヴゴロド第一年代記はこの襲撃の指揮者がキイだとは述べていないが、叙述の流れからしてそう読める)。つまり、860年のルーシによるコンスタンティノープル襲撃とキイ、ないしアスコリド & ディールは無関係だったのではないだろうか。
 にもかかわらず、おそらく、キイがコンスタンティノープル(あるいはビザンティン)に赴いた、という伝承も12世紀までに成立していたのではないかと想像される。『原初年代記』がそう伝えているだけではなく、そのような伝承があったからこそ、ノーヴゴロド第一年代記もその伝承をコンスタンティノープル襲撃と混同したのではないだろうか。
 そもそもの伝承は、『原初年代記』が伝えるように、キイがコンスタンティノープル(あるいはビザンティン)に赴いた、というだけのものであったろう。ビザンティン側の史料には、皇帝がルーシなる «蛮族» と謁見したとの記述は存在していないが、それを言えばオリガが皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスと謁見し食事までともにしたとの記録も残っていない。唯一の記録はコンスタンティノス自身の手になる『宮廷の行事について』だが(これがあるからオリガのコンスタンティノープル訪問が史実と認められている)、これは歴史書として書かれたものではなく、宮廷行事の手引書である。蛮族との謁見の一例としてオリガを引き合いに出しているにすぎない。アメリカ大統領や中国の国家主席ならともかく、いまの日本で外国の元首が天皇や総理大臣と会見してもニュースにならないのと同じことである。
 黒海沿岸にアマストリスというビザンティン都市があったが、ここをロス(ルーシ)が襲撃したとの記録が残されている。この襲撃がいつのことかは不明だが、一般的に840年前後と見られている。『ベルタン年代記』も839年にインゲルハイムを訪問したビザンティン使節がロス(ルーシ)を伴っていたと述べている。一方は敵対的、他方は友好的という違いこそあるものの、すでに830年代からビザンティンがルーシと関係を持っていたという点で両者は共通している。前後関係は不明ながら、そのルーシの代表(のひとり)であるキイがコンスタンティノープルを訪問したとあれば、ビザンティン側もこれを無碍にはすまい。『原初年代記』の言うように「皇帝から多大の敬意を表された」というのも、誇張されていたという可能性も含めて、あり得ない話ではない。
 念のため、だからと言ってキイのコンスタンティノープル訪問が事実である、と言っているわけではない。単なるでっち上げ、あるいは伝承の間違いという可能性も否定できない。

 キエヴェツなる都市は、15世紀にもドナウ河畔に存在していたらしい。しかしそのような都市の実在は、キイという個人の実在を証明するものではない。

 6世紀から8世紀頃までの時期に書かれたと考えられるアルメニアの年代記『タロンの歴史』には、次のようなエピソードがある。すなわち、Kuar、Meltei、Korean なる三兄弟がおり、それぞれが自身の名にちなんだ都市を建てた。
 三兄弟の伝承は世界中に共通してみられるモティーフであるが(ゼウス & ポセイドン & ハデス、天照大神 & 月読神 & スサノオ、等々)、このアルメニアの伝承は固有名詞までルーシの伝承に似ている。このことから、このふたつのエピソードには相互に関連があったことが推定される。ただし、その関係がいかなるものであったかははっきりしない。史料の年代からしてアルメニアの伝説がルーシの伝説に影響を与えた可能性が高いが、その逆もあり得るからである(ただ文字に書き残された時期が逆転しているだけなのかもしれない)。さらには、スキタイやハザールなど第三者がこの伝説の発祥の地であり、アルメニアの伝説もルーシの伝説もそれを輸入したものである可能性もある。
 さらに言えば、史実とフィクションが入り混じって伝説化する例は枚挙に暇がない(牛若丸伝説もそうであろう)。すなわち、フィクションの要素が色濃いからと言って、それだけでキイの実在そのものを否定するのは短絡的と言うべきである。

 もし『タロンの歴史』の伝えるエピソードが実在したキイ兄弟を反映しているとすると、キイ兄弟は遅くとも8世紀までに存在したということになろう。『タロンの歴史』が厳密にいつつくられたものかはわからないが、おそらくは6世紀、どんなに遅くとも8世紀以前だそうだ。すなわち、キイは8世紀以前、それが伝承化されてアルメニアにまで伝わったことを考えるとやはり7世紀以前の存在であったということになろうか。ある学者は、皇帝ユスティニアヌス1世の時代(527-565)であったと推測している。
 しかし、『タロンの歴史』とキイとの関係は立証されたわけではない。ノーヴゴロド第一年代記はキイ兄弟のキエフ建設を854年のこととしているが、『原初年代記』は「いつ」という問題には口をつぐんでいる。しかし前後の話の流れから、やはり9世紀が妥当であろうかと思われる。せいぜい800年頃だろうか。となれば、当然『タロンの歴史』とキイ兄弟とは無関係であったか、あるいは『タロンの歴史』の影響でキイ兄弟の伝承が生まれたか。

 9世紀、すなわちキイが実在したとして、キイがキエフを建設したと考えられる頃、キエフ(のある地域)はハザール帝国の勢力圏にあった。ゆえにキエフは、ハザール帝国の都市として建てられた。あるいは少なくともハザールの都市であった。ゆえにキイが実在したとすれば、かれはハザール人だった。
 このような三段論法を目にしたことがあるが、個人的には前提が不確定だと思う。少なくとも、キエフとハザールの関係は明確になっていない。キエフはハザールに建てられた、とか、キエフはハザールの前線基地だった、といったことがしばしばまことしやかに語られるが、それはあくまでも後世の学者の仮説でしかない。冒頭で紹介したアル=イスタフリもコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスも、キエフについて語るに際してハザールの「ハ」の字も述べていない。
 次に、その賛否の根拠を列挙してみる。

  1. pro
    1. キエフ書簡
    2. ベルタン年代記
    3. ルーシの諸年代記
  2. contra
    1. ハザール人自身の証言
    2. イスラーム系・ビザンティン系の同時代史料

 キエフ書簡とは、あるユダヤ教徒コミュニティが、他都市のユダヤ教徒コミュニティに対して、とあるユダヤ教徒への義捐金を募るために送ったものである。第一に、書かれたのがおそらく930年頃と推測されること、第二に、発送元のユダヤ教徒コミュニティがキエフにあったこと(発送先がキエフだったとする説もある)、第三に、署名しているユダヤ教徒の半分はテュルク系であること(すなわちおそらくハザール人)、第四に、突厥文字で「読了済み」なる意味のハザール語が書かれていること、以上四点は内容以上に重要である。すなわちこの四点は、930年頃のキエフにはハザール人のユダヤ教徒コミュニティがあり、しかもハザール人官僚が駐在していたことを意味する。ルーシ人官僚(そんなものがいたとして)の「読了済み」サインよりもハザール人官僚のサインの方が意味を持ったという事実は、キエフがハザール帝国に政治的に従属していたことを如実に物語っていると思う。これは同時代史料であり、しかも重要なのは写本などではなく原本である、という点である(写し間違いはあり得ない)。同時代史料、しかも原本を疑っては文献史学は成立し得ないだろう。問題があるとすれば、「キエフはハザール帝国の一部だった」と明言されていないこと、何より時代がおそらくキイの時代とはズレること。
 『ベルタン年代記』に興味深い記述がある。

『ベルタン年代記』は、ラテン語で書かれたフランク帝国の年代記。830年から882年をカバーし、882年の直後に書かれたものと考えられる。

主の顕現より839年。……(中略)……。皇帝テオフィロスよりギリシャの使節、すなわちカルケドン府主教テオドシオスとスパタリウスのテオファノスが訪れた。かれらは、皇帝に相応しい贈り物とともに、親書を送り届けた。皇帝(ルイ敬虔帝)は敬意をもって、6の月の15日目に、インゲルハイムにて受領した。使節は両帝国間、ならびにその臣下間の平和的合意と恒久的友好・友愛を確認する目的を有していた。さらに、主への感謝とともにかれ(テオフィロス)は、内部の敵との戦いで天の助けによりもたらされた勝利を知らせ、皇帝(ルイ敬虔帝)とその全臣下に、好意を表し、さらにあらゆる勝利をもたらす者(主)への感謝を捧げるよう提案した。かれら(ビザンティン使節)とともに送られてきた者があったが、かれらはロス Rhos と呼ばれる民族であり、chacanus と呼ばれるその王が、友好のためにかれら(Rhos)を(コンスタンティノープルへ)送ったのだという。前述の親書においてかれ(テオフィロス)は、皇帝(ルイ敬虔帝)の慈悲と援助により、かれら(Rhos)がその帝国を通って無事帰還することができるよう要請していた。かれら(Rhos)がコンスタンティノープルへやってきた道のりは蛮族の土地を通っており、蛮族が野生ゆえに極度に凶暴であるので何らかの危険に逢うかもしれず、かれら(Rhos)がこの道のりで帰還することをかれ(テオフィロス)は望んでいないからである。かれら(Rhos)の到来を入念に調査した結果、皇帝(ルイ敬虔帝)は、かれら(Rhos)が Sueones 民族であることを知り、かれらがかの国でもこの国でも友好の使節ではなくスパイであると見なして、かれらが誠実な意図を持っているか否かがはっきりするまではかれらを留め置くこととした。……。

テオフィロス(813-842)はビザンティン皇帝(829-842)。ミカエル3世の父。ここで言う «内部の敵» とは叛乱を起こしたテオフォボスのこと。まさに839年、テオフォボスはテオフィロスに屈した。
 ルイ敬虔帝(778-840)はフランク皇帝(西ローマ皇帝 814-840)。シャルルマーニュ(カール大帝)の子。
 ここで言うロス Rhos がルーシのことである、という点では基本的に学者の意見は一致している。この点には異論もあり得ようが、ここでは立ち入らない。かれらがコンスタンティノープルに来るために通り抜けてきた蛮族とはマジャール人(ハンガリー部族連合)のこととする説が多数派のようだが、この蛮族こそが東スラヴ人だとする説もある。
 Sueones とはスヴェーア人で、こんにちのスウェーデン人の祖。つまり、ルーシはスウェーデン人だった、と言っている。これについては立ち入らない。

chacanus とはどう考えてもモンゴル語のハカン、テュルク語のカガンである。この言葉は、当時にあってはハザール、ブルガール、アヴァールなどの君主を指す言葉であった。839年の時点で、ルーシの王がカガンを名乗っていた、とすれば、どう考えてもハザールとの間に密接な政治的関係があったはずである。一般的には、ハザールのカガンと対等であることを示すためにルーシの王がカガンを自称した、と考えられている。ブルガリアの王がビザンティン皇帝に対抗してツァール(カエサル)を名乗ったり、日本の王が隋の皇帝に対抗して天子を称した例からしても、ルーシがハザールの政治的勢力圏に属していたと見ていいだろう。問題があるとすれば、このルーシがキエフのルーシとは限らない、という点であろう。実際、カガンを名乗ったのはキエフではなくノーヴゴロドのルーシ王だったとする説もある。カガンなる称号については、イスラーム系史料とのからみで興味深い問題があるが、いずれ別の機会に論じることにする。
 ルーシの諸年代記は、ポリャーネなど南部の諸部族がハザールに貢納していたと述べている。これなど、キエフ(ポリャーネの都市)がハザールに従属していた事実を示す証拠であると言えよう。しかしよく読んでみると、問題がないでもない。『原初年代記』における852年より以前の記述に、ポリャーネがハザールに貢納を強いられたとある。これをそのまま読めば、ポリャーネは9世紀半ばからハザールに従属していたことになる。他方、明確には書かれていないが、882年にキエフを征服したオレーグは、ハザールへの貢納をやめさせたようである。実際、それから数年のうちに周辺のセヴェリャーネやラディーミチに対しても、ハザールへの貢納をやめてオレーグに貢納するよう強要している。すなわち、『原初年代記』の記述をそのまま素直に読めば、ポリャーネ(キエフ)がハザールに従属していたのは9世紀半ばのほんの数十年間でしかないことになる。
 ハザール自身の書いた史料が、10世紀前半に存在する。それがケインブリッジ文書と、ハザールの王ヨセフ自身の書簡である。ハザール自身が自ら書き残したものであるから、これ以上の史料は存在しないとも言える。しかし残念ながら、そのどちらにおいてもキエフがハザール帝国に属していたか否か、それどころかハザールの勢力圏の広がりについてすら明確にされていない。ヨセフ(王自身の証言!)が述べるところによると、「われは河口を守り、船に乗って海を行きムスリムを襲おうとするルーシを通さぬようにしている」(ロング・バージョンとショート・バージョンで微妙に表現が異なるが、同じことを言っている)。これはつまり、むしろ「ハザールはルーシを従属させていない」ということではないだろうか。もちろん、宛て先がイスラーム官僚であったから、自分がムスリムの安寧に貢献していることを強調するためにこのような言い方をしたとも考えられる。さらに言えば、ケインブリッジ文書やヨセフの書簡が書かれた10世紀前半は、ハザールの勢力が衰えてきた時期だと考えられているから、数世代前の9世紀にはまだキエフ(ルーシ)はハザールに従属していたかもしれない。もっとも、さらに言えば、ケインブリッジ文書もヨセフの書簡も多分に政治的な思惑がからんでおり、ゆえにかつて短時間なりともルーシがハザールに従属していたならば、それをむしろ現在進行形で誇るのではないか、とも考えられる。
 何より、アル=イスタフリやコンスタンティノス・ポルフュロゲネトス以下、同時代のイスラーム系・ビザンティン系史料には、ルーシであれスラヴ人であれ、「ハザールに従属している」との記述がまったくないどころか、それを示唆するような記述も存在しない。
 そもそも、アル=イスタフリは明確に述べていないが、ムスリムは「ルーシはスラヴ人ではない」と考えていた。ではルーシとは何者か、ということが問題となるが、ここでは立ち入らない(基本的にはノルマン人と考えていた)。いずれにせよ、ルーシがスラヴ人でないとすれば、キエフ(のある地域)に住んでいたポリャーネがスラヴ人である以上、『ベルタン年代記』の情報は無意味になる。
 このように、当時のルーシがいったい何者だったのかが明確ではないし、さらに9世紀から10世紀にかけてのキエフの状況、ハザールとルーシとの関係も明確ではない以上、キエフとハザールとの関係については、関係があったともなかったとも言えない、としか言いようがない。

 なお、15世紀のポーランドの司教ヤン・ドウゴシュは、こんにちでは失われてしまった古いルーシの年代記を幅広く参照して自身の歴史書を著したと考えられている。かれによれば、「Kyg、Szczyek、Korew の死後、その直系の子孫が多年にわたりルーシに君臨し、最後に兄弟 Oszkald と Dyr にいたる」となる。これが正しいとなると、キイは、882年まで続く «キエフ王朝» の創始者ということになる。

 余談だが、ルィベディについては(おそらく後世)独自の伝承が生じた。それによると、彼女のあまりの美しさに各国から求婚者が相次いだが、彼女はことごとく拒絶した。怒った求婚者たちは団結して彼女のもとを去り、しかも父キイ(この伝承ではルィベディはキイの妹ではなく娘)が死んだことによって、ルィベディは宮殿を去って郊外の山中に独り暮らすことを余儀なくされた。あまりの寂しさに流した彼女の涙がルィベディ川になったという。

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最終更新日 30 05 2013

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