イリーナ・フョードロヴナ・ゴドゥノーヴァ
Ирина Федоровна Годунова
ツァリーツァ царица всея Руси (1584-)
生:?
没:1603.10.29/11.08−モスクワ
父:フョードル・イヴァーノヴィチ・ゴドゥノーフ -1569
母:ステパニーダ・イヴァーノヴナ
結婚:1580−モスクワ
& ツァーリ・フョードル1世
子:
名 | 生没年 | 結婚 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | 身分 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
フョードル1世と | |||||||
1 | フェオドーシヤ | 1592-94 | − |
ボリース・ゴドゥノーフの妹。
7歳の時に宮廷に引き取られて養育されたという。そのため、将来の夫フョードル・ツァレーヴィチとは幼少の頃からの顔見知りだったらしい。
1580年、フョードル・ツァレーヴィチと結婚。この結婚はツァーリであるイヴァン4世雷帝の意志によるものだという。
フョードル・ツァレーヴィチは精神的に虚弱だったと言われるが、おそらくイリーナ・ゴドゥノーヴァのことは真摯に愛したのだろう。兄ボリース・ゴドゥノーフが権力を握ることができたのも、フョードルに対するイリーナの影響力なしには考えられない。
1584年、イヴァン雷帝が死去。2年前に皇太子格であったイヴァン・ツァレーヴィチが死んでいたため、夫のフョードルがツァーリに即位。イリーナはツァリーツァとなった。
当時、モスクワ系リューリコヴィチの男系子孫は、フョードルのほかにはその異母弟のドミートリイ・ツァレーヴィチがいるだけだった。しかもツァリーツァ・イリーナには、結婚後2年を経ても妊娠の兆候がなかった。このためイリーナに替えて、フョードル1世の後見人(のひとり)であるイヴァン・ムスティスラーフスキイ公の娘をフョードルと結婚させようという動きがあった。これに権力闘争もからんで、イヴァン・ムスティスラーフスキイ公、イヴァン・シュイスキイ公(かれもフョードル1世の後見人)、イヴァン・ヴォロトィンスキイ公、府主教ディオニーシイなどがそろってフョードル1世にイリーナとの離縁を要求するという事態に至る。
しかしこれには、フョードル1世自身が反対。このため離縁を要求した者はいずれも失脚し、結果的に兄ボリース・ゴドゥノーフが権力を掌握することになった。
これまでのツァリーツァと異なり、ツァリーツァ・イリーナは外国使節を迎えたり貴族会議にも出席するなど、積極的に政治にかかわりを持った。イングランド女王エリザベス1世とも書簡を交換しているし、フョードルと並んでツァリーツァ・イリーナの署名のある文書が残っている。
1589年、コンスタンティノープル総主教イエレミアス2世がモスクワを訪問した際に、ツァリーツァ・イリーナもフョードルやボリース・ゴドゥノーフとともにこれを出迎え、歓迎の挨拶を述べている。記録に残る限り、公的な場でツァリーツァが発言したのはこれが最初である。
1598年、フョードル1世が死去。これまでの歴代モスクワ大公・ツァーリは遺言を残してきたが、フョードル1世は遺言状を残していない。これまでの遺言状は、息子たちの誰に何を相続させるかを定めたものであり、息子はおろか男系の血縁がひとりもいないフョードル1世が遺言状を残していないのは不思議ではないと言えるかもしれない。
フョードル1世の死の直後、政治の実権は総主教イオーフと貴族会議が握ったが、政府の文書にはツァリーツァとしてイリーナが署名していた。総主教イオーフや貴族たちはツァリーツァ・イリーナに臣従を誓ったが、これはつまりイリーナを «女帝» として仰いだということである。しかしイリーナはノヴォデーヴィチイ修道院に入り、修道女となった(修道名アレクサンドラ)。
自らは修道女となりながら、ツァリーツァ・イリーナはひそかに聖職者や大貴族、商人、さらには一般庶民にまで働きかけ、兄の即位を支援した。結局召集された全国会議がボリース・ゴドゥノーフをツァーリに選出。
その後はノヴォデーヴィチイ修道院で静かに余生を送った。クレムリンのヴォズネセンスキイ修道院に埋葬された。