ゴドゥノーフ家人名録

ボリース・フョードロヴィチ・ゴドゥノーフ

Борис Федорович Годунов

ボヤーリン боярин (1580-)
ツァーリ царь всея Руси (1598-1605)

生:1552
没:1605.04.13/04.23−モスクワ

父:フョードル・イヴァーノヴィチ・ゴドゥノーフ -1569
母:ステパニーダ・イヴァーノヴナ

結婚:1570/71−モスクワ
  & マリーヤ -1605 (グリゴーリイ・ルキヤーノヴィチ・スクラートフ=ベリスキイ)

子:

生没年結婚結婚相手生没年その親・肩書き身分
マリーヤ・スクラートヴァと
1クセーニヤ1582-1622
2フョードル1589-1605

ツァリーツァ・イリーナの兄。

 父の死後、叔父ドミートリイ・イヴァーノヴィチ・ゴドゥノーフに引き取られる。叔父の所領はヴャージマにあったが、ここはオプリーチニナとされる。叔父もオプリーチニクとなって昇進し、ポステーリヌィイ・プリカーズの長官となった。

ポステーリヌィイ・プリカーズとは、語義からすると寝室関係の官庁。ポステーリニチイ(寝具係)をたばねる組織だったと思われるが、詳しいことはよくわからない。ストーリニク(食卓係)やオコーリニチイ(側用人)が、のちにその本来の語義から離れて高級官僚の階級と化していったように、ポステーリニチイにも寝具係として以外の役割が与えられていたかもしれないし、それを束ねるポステーリヌィイ・プリカーズにもツァーリの寝室を整える以外の職務があったかもしれない。たとえそれ以外の職務がなかったとしても、ツァーリの身近に仕える職務内容からして、ドミートリイ・ゴドゥノーフはイヴァン雷帝の個人的信任を得ていたと言えるだろう。なお、ポステーリヌィイ・プリカーズは1573年が文献上の初見であるので、ドミートリイ・ゴドゥノーフは最初期の長官だったということになる。

 ボリース・ゴドゥノーフ自身が歴史に登場するのは1570年から。この年に自身オプリーチニクとなったボリース・ゴドゥノーフは、翌1571年には、オプリーチニクの中心人物としてイヴァン雷帝の信任篤かったマリュータ・スクラートフの娘と結婚。1578年にはクラーフチイに昇進。
 1580年、妹イリーナフョードル・ツァレーヴィチと結婚し、ボリース・ゴドゥノーフはボヤーリンとして認められた。

クラーフチイは、オコーリニチイ、ストーリニク、ポステーリニチイなどと同じ宮廷の職名。要は食卓係だが、ストーリニクよりも上で、かれらを取り仕切ってツァーリの宴会を差配する職務である。当然高い地位にある貴族が任命される。ヴァシーリイ3世時代には妃の従兄弟、摂政エレーナ・グリンスカヤ時代には実弟、ピョートル大帝の治世初期には母方の従兄弟などがこの職に就いていた。

 1582年、イヴァン雷帝が嫡男のイヴァン・ツァレーヴィチを殺す。これにより義弟のフョードル・ツァレーヴィチイヴァン雷帝の後継者となる。こうしてボリース・ゴドゥノーフは、姻戚関係からも権力の中枢のすぐそばに位置することになった。この時期、イヴァン雷帝の最も篤い信任を得ていたのは、ボグダーン・ベリスキイとボリース・ゴドゥノーフだったとも言われる。
 1584年、イヴァン雷帝が死去。この時ボリース・ゴドゥノーフもボグダーン・ベリスキイとともにツァーリの最期を看取り、クレムリンの外の民衆にツァーリの死を告げたのもこのふたりだった。
 死の前にイヴァン雷帝は、跡取りフョードル・ツァレーヴィチの後見人を定めていた。すなわち、ニキータ・ユーリエフ=ザハーリインイヴァン・シュイスキイ公イヴァン・ムスティスラーフスキイ公、ボグダーン・ベリスキイ、そしてボリース・ゴドゥノーフ。このうちボグダーン・ベリスキイは、フョードル1世の異母弟ドミートリイ・ツァレーヴィチの後見も任じられていた。

ボグダーン・ヤーコヴレヴィチ・ベリスキイ(-1611)の素性については、マリュータ・スクラートフ(本名グリゴーリイ・ベリスキイ)と同じく、リューリコヴィチのベリスキイ家ともゲディミノヴィチのベリスキイ家とも無関係とされるのが一般的だが、時にはゲディミノヴィチのベリスキイ家の末裔とされることもある。マリュータ・スクラートフの甥とする文献もある。ボリース・ゴドゥノーフとほぼ同じキャリアを辿った。オプリーチニクとして登場し、その後イヴァン雷帝の個人的な信任を得て昇進。軍事や外交でも活躍したこと、ボヤーリンの地位を与えられなかったことがボリース・ゴドゥノーフとの違い。かれとチェスをしている最中にイヴァン雷帝は発作に倒れて死んだ。

 «摂政会議» の中心となったのは、年齢的にも年長で、ツァーリの母方の伯父でもあるユーリエフ=ザハーリインだったが、病気であったと言われる。そのためかすぐに姿を消した。
 他方、ボグダーン・ベリスキイは最も «小物» であり、しかもかれが後見人となっているドミートリイ・ツァレーヴィチ(特にその後ろに控える母后マリーヤ・ナガーヤとナゴーイ一族)は、権力にとって邪魔であった。このため «摂政会議» は、フョードル1世の即位直後にドミートリイ・ツァレーヴィチをウーグリチ公に、ボグダーン・ベリスキイをニージュニイ・ノーヴゴロド総督に任じた。いずれも事実上の追放・左遷である。
 残った後見人のうち、ツァーリの義兄であるボリース・ゴドゥノーフの発言力が大きかったが、家格でも年齢でもシュイスキイ公ムスティスラーフスキイ公が双璧で(両者とも分領公の末裔)、このため大貴族たちは «成り上がり者» のボリース・ゴドゥノーフに反発してシュイスキイ公 & ムスティスラーフスキイ公を支持した。
 この時反ボリース派にとって攻撃の材料となったのが、ツァリーツァ・イリーナに子がなかったことである。かれらは府主教ディオニーシイをも抱き込んで、フョードル1世イリーナとの離縁を迫った。専制君主に跡継ぎがいなければ国家が混乱するから、これは正論であったが、ボリース・ゴドゥノーフにとって幸いだったのはフョードル1世がこれを断固拒否したことである。1585年にムスティスラーフスキイ公、1585/86年にシュイスキイ公、さらに1586/87年に府主教ディオニーシイが追放され、府主教の後任には親ボリース派のロストーフ大主教イオーフが叙任された。
 こうしてボリース・ゴドゥノーフが権力を一手に握った。フョードル1世は精神的に薄弱だったと言われるが、そうでなかったとしても政務に関心を示そうとしなかったのは事実である。ボリース・ゴドゥノーフがツァーリとなるのはまだ先の話であるが、すでにこの時からかれが最大の権力者であり実質的な国家の運営者であって、そういう意味ではボリース・ゴドゥノーフの «治世» は1585/86年に始まっていたと言ってもいいだろう。

 ボリース・ゴドゥノーフによる «新政権» の課題には、リヴォニア戦争の後始末、クリム・ハーン国の襲来への対処、国際的な政治経済体制への参画、大貴族の抑圧と新興貴族の重用による中央集権の推進、などがあった。

 早くも1584年にはアルハーンゲリスクに港を開設。不凍港ではなかったものの、ここを経由して、すでにイヴァン雷帝時代に始まっていたイングランドとの通商がますます活発化していく。

 1585年、12年間にわたって空位だったカシーモフ・ハーンにムスタファー=アリーを就ける。

 1586年暮れ、ポーランド王・リトアニア大公・トランシルヴァニア公ステファン・バトーリが死去。ポーランド=リトアニアでは、後継の王を選ぶ選挙が実施されることになった。この時ボリース・ゴドゥノーフは、フョードル1世を立候補させる。フョードル1世がカトリックに改宗するなどあり得なかった以上、ボリース・ゴドゥノーフの意図がどこにあったかはよくわからない。そもそも、対立候補であるスウェーデンの王太子シギスムンド(ヤギェウォ家最後の王ジグムント・アウグストの甥)を当選させないよう、同じく対立候補であるハプスブルク家のマクシミリアン3世を支持したとも言われる。結局シギスムンドが1587年に当選し(ポーランド王としては、«ジグムント3世・ヴァーザ» と呼ばれる)、これによりスウェーデン、ポーランド、リトアニア3国の同君連合が成立することになり、ロシアにとっては危機的な状況が生じたことになる。

 1586年、オスマン帝国とサファヴィー朝との圧迫を受けたカヘティ王アレクサンドルがロシアの庇護を求めてくる。1589年にはフョードル1世に臣従を誓った。

 国内的には、ボリース・ゴドゥノーフは、イヴァン雷帝以来の中央集権化政策を推進。古くから続く領主貴族を圧迫して新興の宮廷貴族(ドヴォリャニーン)を積極的に登用し、その勤務の対価としてかれらにも土地(封土)を与えた。さらに若い人材を登用して官僚組織を強化。
 また、ドヴォリャニーン(や弱小地主)の農民が大貴族に奪われることを阻止するため、農民が自由に移動できるユーリイの日の伝統を禁止し、農民を土地に縛り付けた。これが正確にいつのことかは不明だが、フョードル1世治下のことと考えられる。

農民がいまいる土地を去って別の土地に移動するというのは、元の土地の地主(貴族)にとっては不利益であり、よってイヴァン3世大帝が、農民の移動を «ユーリイの日» と呼ばれた11月26日にのみ限定していた。ボリース・ゴドゥノーフによって、農民の移動が全面的に禁止されたわけである。
 いまいる土地を去る農民を «逃亡農民» と呼ぶが、逃亡農民を捕らえて連れ戻す権利が元の地主には認められていた。しかしその権利も一定期間を過ぎれば消失し、農民は元の土地に連れ戻される心配がなくなる。つまりこの «一定期間» を逃げ延びることさえできれば、農民は事実上移動の自由を持つと言える。ボリース・ゴドゥノーフは1597年の法令でこの «一定期間» を5年としたが、のちに15年に延長され、1649年には無期限とされた。こうして農民の移動の自由は完全に剥奪され、農民は土地に縛り付けられて、いわゆる «農奴» が誕生(完成)することになる。

 ロシアの農村は、イヴァン雷帝のオプリーチニナの時期に急速に荒廃した。その原因は様々だが、ボリース・ゴドゥノーフには農村の建て直しも重要な課題であり、ユーリイの日の禁止は農民の離村を阻み、農村を復興させる目的も持っていたものと思われる。
 ボリース・ゴドゥノーフはさらにその後1592年までに土地台帳を整備。これも、農村荒廃を受けて農村の実態を把握するという目的を持っていたが、同時に土地台帳を整備することそれ自体が農民に対する締め付けを強化することにもつながった(それはつまり貴族、特に弱小貴族の保護につながる)。
 ユーリイの日の禁止や土地台帳の整備は荒廃した農村の再建を目指したものでもあったが、現実には農民に対する締め付けの強化につながり(さらにのちの農奴制へとつながる)、これに反発する農民がドン、ヴォルガ、シベリアへと大量に逃亡し、結果的にさらに農村の荒廃を招きもした。とはいえ、ボリース・ゴドゥノーフが政権を指揮していた20年間には大きな戦乱がなく、ために1600年代に入る頃には農村も徐々に立ち直り始めていたと言われる。
 なお、ドン、ヴォルガ、シベリアに逃亡した農民はコサックとなり、ロシアの勢力圏を拡大することにもつながった。

 1589年、コンスタンティノープル総主教イエレミアス2世と交渉し、モスクワ府主教座を総主教座に格上げすることを認めさせた。モスクワ府主教座が、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレムと並ぶ地位を認められたわけで、これはロシアの国際的地位を大きく高めることにもなった。初代総主教として、府主教に就任したばかりのイオーフが、当時モスクワに滞在していたイエレミアス2世から直々に叙任された。

イオーフ(-1607)はスターリツァ出身の修道士。イヴァン雷帝に取り立てられ、コロームナ主教(1581-86)、ロストーフ大主教(1586)。ボリース・ゴドゥノーフと仲が良く、その推挙でモスクワ府主教(1586-89)、そして初代モスクワ総主教(1589-1605)。偽ドミートリイ1世を認めず、平修道士に格下げされてスターリツァの修道院に監禁された。ヴァシーリイ・シュイスキイにより復権されるが、健康上の問題から総主教座には復職せず、スターリツァの修道院で死んだ。1989年に列聖。

 1590年、スウェーデンとの戦争が勃発。ロシアにとってもスウェーデンにとっても、消化不良のまま終わったリヴォニア戦争の続きであったと言えよう。
 1591年、ロシアがスウェーデンとの戦争を遂行している隙を突く形で、カージー=ギレイ率いるクリム・ハーン軍がモスクワに来襲したが、クレムリンを囲む城塞を前に空しく撤退していった。これがタタールによるモスクワ攻撃の最後となった(ただしモスクワ以外の土地への襲来はまだ続く)。
 すでにボリース・ゴドゥノーフは、クリム・ハーン国の襲来に対する防衛の拠点として、南方にヴォローネジュ(1585)、ベールゴロド(1596)、クールスク、サマーラ(1586)、サラートフ(1590)、ツァリーツィン(1589)、アーストラハニ(1589)などに城塞を建設していた。このうちヴォルガ川沿いのサマーラ、サラートフ、ツァリーツィンの建設はまた、アーストラハニへと続く通商ルート確保の目的もあった。

 1591年、ウーグリチでドミートリイ・ツァレーヴィチが死去。不慮の事故による死と発表されたが、死の直後から母后マリーヤ・ナガーヤが、ボリース・ゴドゥノーフによる暗殺を声高に主張した。
 フョードル1世イリーナの夫婦には、結婚後10年以上経っても子が生まれていなかった(翌1592年に長女が誕生)。つまりツァーリの位は、このままいけばドミートリイ・ツァレーヴィチが継ぐ公算が大きかった。すでにこの時点から、ボリース・ゴドゥノーフが「いずれは自分が」と目論んでいたかどうかはわからないが、少なくともドミートリイ・ツァレーヴィチがツァーリとなれば、権力の座から追われることは確実である。ツァーリの位に対する欲がなかったとしても、やはりボリース・ゴドゥノーフにとってドミートリイ・ツァレーヴィチが邪魔な存在であることにかわりはない。
 本当に事故死だったのか、それともボリース・ゴドゥノーフが暗殺させたのか、真相は闇の中である。
 ともかくボリース・ゴドゥノーフは、ヴァシーリイ・シュイスキイ公を団長とする調査団をウーグリチに派遣し、その結果調査団は事故死と断定した。

なお、「ドミートリイ・ツァレーヴィチはボリース・ゴドゥノーフにとって邪魔な存在ではなかった」という主張もある。これについては重複になるので、マリーヤ・ナガーヤを参照されたい。

 1592年、カヘティ王アレクサンドル支援のため、カフカーズに軍を派遣。しかしこれは大した効果をあげなかった。ロシアのザカフカージエ進出は時期尚早であったと言うほかない。1605年にも軍を派遣し、カフカーズ侵攻の共同作戦を要求する。しかしカヘティではクーデタが発生し、サファヴィー朝に与した王子コンスタンティーンによってアレクサンドルは殺された。ボリース・ゴドゥノーフ自身、この知らせがモスクワにとどいた時点ではこの世にいなかった。

 1592年、スウェーデン王ヨハン3世が死去。王太子であり、ポーランド=リトアニア王でもあったジグムントがスウェーデン王位を継いだ。ロシアにとっては、ある意味最悪の事態が現実のものになったと言える。
 しかし、ポーランド=リトアニアも、当然その王であるジグムントもカトリックだったが(ジグムントはカトリックとして育てられた)、スウェーデン教会はすでに1536年にローマから独立した福音派教会となっていた。このため、ワルシャワに居座るジグムントとスウェーデンとの関係は急速に悪化。
 こうしてロシアとの戦争どころではなくなったジグムントは、1595年にテフシナ条約で、リヴォニア戦争でヨハン3世がイヴァン雷帝から奪った領土の一部(バルト海沿岸部)をロシアに返還し、戦争を終わらせた。ボリース・ゴドゥノーフにとってはある意味願ってもない結果に終わったと言えるだろう。
 ちなみにこの後、ジグムントとスウェーデンは戦争に突入し、1599年にはスウェーデン議会がジグムントの廃位を決議。ジグムントはこれを承諾せず、以後ジグムント(とその子ら)とスウェーデンとは、1660年まで敵対関係を続けることになった。
 他方この間の1596年から1602年までかけて、ボリース・ゴドゥノーフは、ポーランド=リトアニアが奪還を目指していたスモレンスクに城壁を築き上げている。

 1598年、フョードル1世が子のないまま死去(ひとり娘は夭折していた)。これにより、モスクワ系リューリク家は断絶した。
 ルーシにおいては、分領公家の断絶は過去にいくらでも例がある。しかし最高君主の家系が断絶したのは、遠くガーリチ=ヴォルィニで14世紀にあっただけで、これはモスクワ・ロシアとは無縁な話である。またその他の地域でも似た事例はあったのかもしれないが、それもまたモスクワ・ロシアには関係がない。少なくともユーリイ・ドルゴルーキイ以来、北東ルーシにおいては常にどこかに疑問の余地なき後継者か、あるいは自ら後継に名乗りを挙げる者がいた。もしも誰もいなくても、キプチャク・ハーンが裁定を下してくれていた。ところがこの時はすでにキプチャク・ハーンもおらず、内心はともかく表立って手を挙げる者もいなかった。ダニイール・アレクサンドロヴィチに始まるモスクワ公家の男系子孫が全滅していたのみならず、君主の地位がツァーリとしてそれまでの公から隔絶してしまっていたため、スーズダリ系やロストーフ系といった同じリューリク家に属する者も、簡単には諸侯の賛同を得られない状況であった。これが、フョードル1世の跡をリューリコヴィチが継げなかった最大の要因である。のちにヴァシーリイ・シュイスキイが失敗したのも、かれがリューリコヴィチの血にのみ拠りかかったため、つまり、もはやロシアの君主は «モスクワ大公» ではなく «ツァーリ» であるというその相違に気づかず、それまでの分領公の感覚で君主権を行使したためだろう。
 フョードル1世の死後、政府の文書には、ツァリーツァとしてイリーナが署名していたが、政治の実権は総主教イオーフと貴族会議が握る。かれらはイリーナに臣従を誓う(つまりイリーナを «女帝» として認めた)が、イリーナ自身はノヴォデーヴィチイ修道院に入り修道女となった。ボリース・ゴドゥノーフもこれに同行する。総主教イオーフはボリース・ゴドゥノーフにツァーリとして即位するよう要請するが、ボリース・ゴドゥノーフはこれを拒否。急遽召集された全国会議は、改めてボリース・ゴドゥノーフをツァーリに選出した。こうしてボリース・ゴドゥノーフは、名実ともにツァーリとなった。
 総主教イオーフはボリース・ゴドゥノーフによって府主教となり、ボリース・ゴドゥノーフによって総主教となった人物で、かねてよりボリース・ゴドゥノーフを支持していた。ボリース・ゴドゥノーフの修道院入りからツァーリに即位するまでは、あるいはふたりによってすでにシナリオが書かれていたのかもしれない。

 ツァーリとなったからと言って、すでに10年以上も実質的に政権を運営してきたボリース・ゴドゥノーフの政策が変わるわけではない。とはいえ、新たな課題は生じた。すなわち、新たな «ゴドゥノーフ王朝» の基盤固めである。
 まずは政敵の排除である。1600年にはボグダーン・ベリスキイを追放。1601年にはユーリエフ=ザハーリインの子らを追放し、シュイスキイ家などの有力大貴族も粛清した。これには、かねて進めてきた大貴族を抑圧してドヴォリャニーンを取り立てるという政策の延長という意味合いもあったかもしれない。
 王朝の維持において重要な跡取りはすでに存在したが、今度はその跡取りの結婚が問題となる。ボリース・ゴドゥノーフは娘クセーニヤの外国王家との結婚を模索したが(息子フョードルはまだ幼かった)、これには、新たな王朝の正統性を外国王家に求めたという側面もあったろう。このため、スウェーデン王子、ハプスブルク家のプリンス、デンマーク王子などがその候補者となった。
 ちなみにボリース・ゴドゥノーフは、外国との交易にも熱心だったが(ハンザ同盟とも通商協定を締結している)、そもそも外国に大きな関心を持っていたのかもしれない。外国人技術者の招聘に熱心で、同時にロシアから西欧へも留学生を派遣する(ひとりも帰国しなかった)。さらには大学の創設も目指したが、これらの政策は、正教会を中心とする保守派の反感を買い、特に大学創設は夢想の段階にとどまった。ある意味では、アレクセイフョードル3世、そしてピョートル大帝と続く «西欧派» の先駆け的存在だったと言えるかもしれない。

 すでにイヴァン雷帝が、リヴォニアを独立国家とした上でツァーリの宗主権を認めさせるという案を実行に移していたが、ボリース・ゴドゥノーフはこの路線を踏襲。スウェーデン王子グスタフを «リヴォニア王» の候補としてモスクワに招いた。
 グスタフの父エーリク14世はヨハン3世の兄であり、かれに廃位され殺されていた。つまりグスタフとポーランド=リトアニア王ジグムント・ヴァーザとは従兄弟同士に当たる。この当時のスウェーデン王はすでにジグムント・ヴァーザではなく、エーリク14世とヨハン3世の末弟であるカール9世になっていた。ボリース・ゴドゥノーフとしては、グスタフという «正統なスウェーデン王» を握ることで、カール9世にもジグムント・ヴァーザにも牽制になると考えたのかもしれない。あるいはグスタフのスウェーデン王位継承権とリヴォニアとを交換できると考えたのかもしれない。もっとも、グスタフの母はエーリク14世の愛人で(グスタフの誕生後に貴賎結婚したが)、グスタフの王位継承権は、よくても疑わしいと言わざるを得ない。とはいえ、少なくとも、スウェーデンとポーランド=リトアニアとが戦争状態にある現在、リヴォニアを奪うことは可能だと考えたのだろう。
 1599年、グスタフはモスクワに到着。ボリース・ゴドゥノーフはとりあえず分領としてカルーガを与え、同時に娘クセーニヤとの結婚を約束した。しかしグスタフは、モスクワでスキャンダラスな生活を送ると同時に、約束した正教への改宗を拒み続けた(かれはカトリック)。怒ったボリース・ゴドゥノーフは、リヴォニア征服計画を断念。クセーニヤとの結婚も無効とし、グスタフからカルーガを取り上げた。それでも外国に送り返すのは忍びなかったのか、ウーグリチを分領として与えた。
 グスタフとの結婚話が破談となった後、ボリース・ゴドゥノーフはハプスブルク家に接近。皇帝ルードルフ2世の弟マクシミリアン3世とクセーニヤとの結婚を交渉する。ボリース・ゴドゥノーフは花婿に、ロシアへの移住と正教への改宗を要求し、代わりに分領公の地位(トヴェーリ公領)を約束した。しかし改宗問題で頓挫。

グスタフ(1568-1607)はボリース・ゴドゥノーフの死後、偽ドミートリイによりヤロスラーヴリに監禁されるが、ヴァシーリイ・シュイスキイにより釈放される。カーシンを与えられ、そこで1607年にひっそり死んでいった。
 マクシミリアン3世(1558-1618)は、1586年にポーランド王選挙に立候補した人物。ドイツ騎士団の総長を長く務め、結局未婚のまま死去。

 ストローガノフ家によるシベリア進出を積極的に支援し(1585年にエルマークは死去したが、その部下がシビル・ハーン国を征服)、オビ河とその支流にテュメーニ、トムスク、トボーリスク、ベリョーゾフなどの城塞を築いて、シベリア支配の拠点とした。
 チェレミース人(マリー人)をはじめとするウラル系諸民族対策として、ヴォルガ中流域に多数の都市を建設する。

 1601年、仇敵ポーランド=リトアニアと20年間の休戦条約を結ぶ。

 1601年から03年にかけて、不作、それによる飢饉と疫病が大流行(モスクワだけで10万人が死んだとも言われる)。ボリース・ゴドゥノーフの農民統制強化策に対する反抗もあり、1603年にフロプコーに率いられた農民蜂起が中部ロシアで勃発するが、ボリース・ゴドゥノーフはイヴァン・バスマーノフを派遣してこれを鎮圧した。

イヴァン・フョードロヴィチ・バスマーノフ(-1604)は、ボリース・ゴドゥノーフの寵臣であったバスマーノフ兄弟の弟の方。兄ピョートル(-1606)は1601年にオコーリニチイ(ボヤーリンの次に位置する高位の称号)、イヴァンは1603年にオコーリニチイとされた。フロプコーの乱の鎮圧に派遣され、これを撃破するも、自身は戦死した。

 1602年、ボリース・ゴドゥノーフは、デンマーク王子ハンス/ヨハンをクセーニヤの花婿候補とする。ハンスは、ロシアへの移住と正教への改宗というふたつの条件をふたつともに呑み、モスクワにやって来た。しかしその年のうちに死去。
 代わりにハンスの従兄弟のうち誰かを花婿にしようと、ハンスの叔父であるシュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公ハンスと交渉を開始する。従来と同じく、ロシアへの移住と正教への改宗を条件に分領公の地位を提供した。
 一方この頃から息子フョードルの花嫁探しも本格化し、同じ正教徒の王族としてグルジアに目をつけた。この場合、王家内部で抗争の続くカヘティを避け、カルトリ王ギオルギ10世に接近。ギオルギ10世も同意し、その娘エレーナとの結婚が決まった。1604年には正式に使節をカルトリに派遣する。
 しかしどちらも、ボリース・ゴドゥノーフの死で中断された。
 ボリース・ゴドゥノーフがクセーニヤの花婿候補としたのが、故郷を追われたスウェーデン王子、ハプスブルク家のプリンス、デンマーク王子だったのは、スウェーデンとポーランド=リトアニアが当時のロシアにとって最大の敵であったため、敵の敵と結ぼうとした結果だと言える。しかしより興味深いのは、ボリース・ゴドゥノーフが花婿候補に、ロシアに居住し、正教に改宗して、ロシアの分領公になることを要求した点であろう(グスタフの場合もそれに準ずると考えられる)。まだ歳若い息子フョードルが将来即位した時のために、その与党を用意しておこうという意図もあったろうし、もしかすると、将来ゴドゥノーフ王朝が断絶した際にはクセーニヤを介してその子孫にツァーリの位を継がせようとの考えもあったのかもしれない。

ハンス(1583-1602)はデンマーク王クリスティアン4世の末弟。結局正教に改宗する前に死んだので、モスクワ郊外の «ドイツ人居留地»(現在はモスクワ市内)のルター派教会に埋葬された。

 1603年、偽ドミートリイがポーランドに出現。そして翌1604年、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーに侵攻した。その主力は、かれの後押しをしたポーランド貴族ムニシェフやウクライナ貴族ヴィシュニョヴェツキの私兵と、ザポロージエ・コサックであった。ポーランド=リトアニアの正規軍は加わっていない。
 ちなみにこれ以降も、実は動乱の時代にポーランド=リトアニアの正規軍はほとんど動いていない(ほぼ唯一の例外がスモレンスク攻囲)。その要因はいくつかあろうが、ひとつには偽ドミートリイやその後の2世などに期待していなかった(信用していなかった)こと、そもそもジグムント3世の最大の関心がスウェーデン王位の奪還にあったこと、しかも当時はリヴォニアの領有を巡ってもスウェーデンと戦争をしていたこと、さらなる戦費負担を議会(すなわち貴族)が嫌ったことなどが挙げられよう。ちなみにボリース・ゴドゥノーフはスウェーデンに資金援助をしていた。こうしてポーランドをリヴォニアに釘付けにしていたことが、ポーランドが偽ドミートリイに本格的に肩入れすることを防ぐことにもなった。
 セーヴェルスカヤ・ゼムリャーでは、反ボリースの空気も影響したのか、偽ドミートリイをツァーリと認めてその軍勢に屈する都市もあった。しかしボリース・ゴドゥノーフの派遣したピョートル・バスマーノフがセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心都市ノーヴゴロド・セーヴェルスキイを押さえ、偽ドミートリイ軍を撃退。偽ドミートリイは北上の道を阻まれ、プティーヴリに撤退した。

偽ドミートリイとは、その名の通り、ドミートリイ・ツァレーヴィチの偽者である。「ドミートリイ・ツァレーヴィチは死なずに逃げ延びた。それがこのオレだ」と主張した。この手の «僭称者» は、世界のどこでもよく見られる。ただし僭称者は社会の不満を体現する存在とはなり得ても、時の政権を覆す例は少ない。偽ドミートリイはその数少ない例外となった。さらに数少ない例外として、偽ドミートリイ死後に「実は偽ドミートリイ(当然 «偽» とは言わない)は死んでいない」と主張する偽ドミートリイの «2世» が、それどころか «3世» までもが登場した。こうなると笑劇である。

 のちのヴァシーリイ・シュイスキイ vs 偽ドミートリイ2世と比較すると、ボリース・ゴドゥノーフ vs 偽ドミートリイ1世において、ボリース・ゴドゥノーフはよく事態を掌握している。«ユーリイの日» の廃止や大飢饉により農民の不満が渦巻いていたと思われるし、大貴族にも成り上がり者のボリース・ゴドゥノーフに対する反感があっただろうと考えられるが、それにしてはヴァシーリイ・シュイスキイの時代に見られたように、大貴族が大挙して叛乱勢力に与したり、農民が蜂起して叛乱軍に合流したりということは、少なくともボリース・ゴドゥノーフの生前には見られない。それどころか偽ドミートリイ軍を東ウクライナの一角から拡大させておらず、むしろ流れ的にはこのまま鎮圧してもおかしくない状況であった(1605年初頭にドブルィニチで政府軍は叛乱軍に壊滅的な敗北を与えている)。
 しかしこのような情勢の最中、1605年、ボリース・ゴドゥノーフはモスクワで急死した(病気が死因と思われるが、詳細は不明)。

 クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に葬られる。
 偽ドミートリイが権力を掌握すると、ボリースの遺骸はヴォズネセンスキイ・ヴァルソノフィエフスキイ修道院(ルビャンカ)に移される。ヴァシーリイ・シュイスキイの治世に、その遺骸は、家族のものとともに、セールギエフ・ポサードの聖三位一体セールギイ大修道院に改葬された。よって現在はここにかれの墓がある。歴代ツァーリ・皇帝で、ここに葬られているのはボリースだけ。
 亡きツァーリ・皇帝の遺骸を別の場所に改葬するという例はほかにもないではないが、偽ドミートリイがしたようによりにもよって «格下» の墓地に移して亡骸を «貶める» というのはロシアではほかに例がない。

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最終更新日 30 11 2012

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