科学アカデミー総裁
科学アカデミー Академия наук は1725年に創設。修飾語は «皇帝の Императорская»(1747-1917)、«サンクト・ペテルブルクの Санкт-Петербургская»(1725-47, 1836-1917)、«ソ連の Советского Союза»(1925-91)、«ロシアの Российская»(1917-25, 91-)等の変遷を辿り、一時は «科学・芸術アカデミー Академия наук и художеств»(1747-1803)とも呼ばれた。
1934年、モスクワにお引っ越し。
氏名 | 生没年 | 専門 | ||
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1 | 1725-33 | ブリュメントロスト ラヴレンティイ・ラヴレンティエヴィチ | 1692-1755 | 医師 |
2 | 1733-34 | ケイゼルリンク男爵 ゲルマン・カール・フォン | 1696-1765 | |
3 | 1734-40 | コルフ男爵 ヨハン・アルベルト・フォン | 1697-1766 | (蔵書家) |
4 | 1740-41 | ブレヴェルン カール・フォン | 1704-44 | |
5 | 1746-98 | ラズモーフスキイ伯 キリール・グリゴーリエヴィチ | 1724-1803 | |
6 | 1798-1803 | ニコライ アンドレイ・リヴォーヴィチ/ルートヴィヒ・ハインリヒ・フォン | 1737-1820 | 詩人(蔵書家) |
7 | 1803-10 | ノヴォシーリツェフ ニコライ・ニコラーエヴィチ | 1761-1838 | |
8 | 1818-55 | ウヴァーロフ セルゲイ・セミョーノヴィチ | 1786-1855 | 官僚・古典学者 |
9 | 1855-64 | ブルードフ伯 ドミートリイ・ニコラーエヴィチ | 1785-1864 | 外交官・歴史学者 |
10 | 1864-82 | リトケ フョードル・ペトローヴィチ | 1797-1882 | 海軍軍人・地理学者 |
11 | 1882-89 | トルストーイ伯 ドミートリイ・アンドレーエヴィチ | 1823-89 | 官僚・歴史学者 |
12 | 1889-1915 | コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 | 1858-1915 | 詩人 |
13 | 1917-36 | カルピーンスキイ アレクサンドル・ペトローヴィチ | 1847-1936 | 地質学者 |
14 | 1936-45 | コマローフ ヴラディーミル・レオンティエヴィチ | 1869-1945 | 植物学者 |
15 | 1945-51 | ヴァヴィーロフ セルゲイ・イヴァーノヴィチ | 1891-1951 | 物理学者 |
16 | 1951-61 | ネスメヤーノフ アレクサンドル・ニコラーエヴィチ | 1899-1980 | 化学者 |
17 | 1961-75 | ケールドィシュ ムスティスラーフ・フセーヴォロドヴィチ | 1911-78 | 数学者 |
18 | 1975-86 | アレクサンドロフ アナトーリイ・ペトローヴィチ | 1903-94 | 物理学者 |
19 | 1986-91 | マルチューク グーリイ・イヴァーノヴィチ | 1925- | 数学者 |
20 | 1991- | オーシポフ ユーリイ・セルゲーエヴィチ | 1936- | 数学者 |
初代総裁ブリュメントロストはピョートル大帝の医務官。
続く3代は、いずれもエルンスト・ビロン同様クールラントから女帝アンナ・イヴァーノヴナにくっついてきたドイツ系貴族(ブレヴェルンはラトヴィア人)。
その後は、ニコライを除けばいずれも貴族。ただしウヴァーロフ、ブルードフ、リトケ、トルストーイは、いずれも実際に学術方面の業績も残している。
ラズモーフスキイ伯はロシア人として最初の科学アカデミー総裁と言われるが、実はウクライナ・コサック。女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの愛人の弟。
ニコライは、皇太子時代以来の皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの寵臣。ストラスブール生まれのドイツ人だったかれを最後に、外国人総裁は姿を消す。
ノヴォシーリツェフ(のち伯)は、皇太子時代以来の皇帝アレクサンドル1世の寵臣。学術的(一部芸術的)な活動をせずに総裁となったのは、かれが最後となった。また、かれ以降はフルシチョーフ時代まで事実上終身。
ウヴァーロフ(のち伯)とトルストーイ伯はともに保守的な教育大臣として有名。
リトケ(のち伯)は2度の世界一周航海に参加し、各地の地誌を研究。コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の教育係も務めた。
そのコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の子コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公は、唯一の皇族。かれも学術的活動はしていないが、長年名誉会員として詩人や作家の作品の出版を後援していた。
もともとがピョートル大帝により創設されて以来自然科学偏重だったが、総裁の専門分野で見る限りは、帝政時代はむしろ人文学・社会科学偏重。逆にソ連時代以降は人文学者・社会科学者はひとりもいない。
革命後初の総裁カルピーンスキイ(臨時政府時代に就任)は、平民出で最初の総裁となった。
芸術アカデミー総裁
芸術アカデミー Императорская Академия художеств は、ロシアの芸術(具体的には絵画・彫刻・建築)を西欧レベルにまで高めるため、イヴァン・シュヴァーロフの提唱で創設された、芸術家養成学校。
氏名 | 生没年 | ||
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1 | 1757-63 | シュヴァーロフ イヴァン・イヴァーノヴィチ | 1727-97 |
2 | 1764-94 | ベツコーイ イヴァン・イヴァーノヴィチ | 1704-95 |
3 | 1795-97 | ムーシン=プーシュキン アレクセイ・イヴァーノヴィチ | 1744-1817 |
4 | 1797-1800 | ショワズール=グーフィエ マリー=ガブリエル=フロラン=オーギュスト・ド | 1752-1817 |
5 | 1800-11 | ストローガノフ伯 アレクサンドル・セルゲーエヴィチ | 1733-1811 |
6 | 1817-43 | オレーニン アレクセイ・ニコラーエヴィチ | 1763-1843 |
7 | 1843-52 | ロイヒテンベルク公マクシミリアン・ド・ボーアルネ | 1817-52 |
8 | 1852-76 | マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女 | 1819-76 |
9 | 1876-1909 | ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公 | 1847-1909 |
10 | 1909-17 | マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃 | 1854-1920 |
シュヴァーロフは女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの寵臣。
ベツコーイはトルベツコーイ公の私生児で、女帝エカテリーナ2世の寵臣。
ムーシン=プーシュキン(のち伯)は、ロシア屈指の文献蒐集家。しかしその膨大な蔵書は、ナポレオンの侵攻とモスクワ大火で大半が焼失してしまった。
ショワズール=グーフィエはフランス人。革命を逃れてロシアに亡命してきた。皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの政策転換により、失脚。
ロイヒテンベルク公以降、皇族。マリーヤ・ニコラーエヴナ大公女は皇帝ニコライ1世の長女。ロイヒテンベルク公はその夫。ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公は皇帝アレクサンドル2世の三男。マリーヤ・パーヴロヴナ大公妃はその未亡人。
ロシア・アカデミー総裁
ロシア・アカデミー Императорская Академия Российская(Императорская Российская Академия とも)は、科学アカデミーが自然科学偏重であったため、ロシア語・ロシア文学の研究・教育機関を設けるべきだとのダーシュコヴァ公妃の提唱で、アカデミー・フランセーズに倣って創設された。
科学アカデミーに統合される。
氏名 | 生没年 | ||
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1 | 1783-96 | ダーシュコヴァ公妃 エカテリーナ・ロマーノヴナ | 1743-1810 |
2 | 1796-1801 | バクーニン パーヴェル・ペトローヴィチ | |
3 | 1801-13 | ナールトフ アンドレイ・アンドレーエヴィチ | |
4 | 1813-41 | シシュコーフ アレクサンドル・セミョーノヴィチ | 1754-1841 |