ピョートル・フョードロヴィチ・オフリャビニン
Петр Федорович Охлябинин
公 князь
生:?
没:?
父:ウフラ公フョードル・ヴァシーリエヴィチ «オフリャビャ» (ウフラ公ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
ドミートリイ | ||||||
アンドレイ |
第21世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。モスクワ大公の勤務公。
父は最後のウフラ河畔の分領公。
1512年と17年、スタロドゥーブ総督に任じられる。スタロドゥーブは当時リトアニアとの前線に位置しており、実際ピョートル・フョードロヴィチは何度も対リトアニア戦に従事している。
1516年には前衛を指揮してモギリョーフを攻略。1518年、19年、22年と、何度もリトアニアと戦う。1519年にはヴィリニュスにまで侵攻した。
1527年、クリム・ハーン軍との戦いに南方に派遣され、カルーガ代官。以後、クリムとカザンのタタール軍との戦闘に従事する。1532年にはカザン・ハーン位を巡る内紛に介入。1536年にはクリム・ハーン軍からコロームナを防衛。
一方西方にも派遣され、1534年には再びリトアニアに侵攻し、ヴィリニュスにまで迫った。