イヴァン・イヴァーノヴィチ・クベンスキイ
Иван Иванович Кубенский
公 князь
ボヤーリン боярин (1541?-)
生:?
没:1546−モスクワ
父:イヴァン・セミョーノヴィチ・クベンスキイ公 (クーベナ公セミョーン・ドミートリエヴィチ)
母:ウリヤーナ (ウーグリチ公アンドレイ・ヴァシーリエヴィチ・ゴリャーイ)
結婚:?
子:?
第20世代。モノマーシチ(ヤロスラーヴリ系)。モスクワ大公の勤務公。
年代記の初出は1518年。その後もモスクワ大公ヴァシーリイ3世の取り巻きとして言及されるが、これといった活躍はしていない。
ヴァシーリイ3世死後は、摂政エレーナ・グリンスカヤの取り巻きのひとり。さらにその死後はシュイスキイ派として、イヴァン・ベリスキイ公との権力闘争に従事し、投獄されたこともあった。
1543年にはヴラディーミルで、1546年にはコロームナで軍を率い、カザン・ハーン軍との防衛戦に従事する。
1543年、宮廷ではエレーナ・グリンスカヤの弟ミハイール・ヴァシーリエヴィチ・グリンスキイ公が実権を掌握する。その後、幼帝イヴァン雷帝の寵臣フョードル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォーフとの対立が表面化。
1546年、ミハイール・グリンスキイは、フョードル・ヴォロンツォーフを、ノーヴゴロドに叛乱を唆した罪で告発し、イヴァン雷帝に処刑させる。この時、イヴァン・イヴァーノヴィチもいかなるつながりからか巻き込まれ、同じくイヴァン雷帝の命により処刑された。