聖フョードル・ロスティスラーヴィチ «チョールヌィイ»
Св. Федор Ростиславич "Черный"
モジャイスク公 князь Можайский (1260-97)
ヤロスラーヴリ公 князь Ярославский (1261-99)
スモレンスク大公 великий князь Смоленский (1280-97)
生:?
没:1299.09.19
父:ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ (スモレンスク公ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ)
母:?
結婚①:1261
& マリーヤ公女 (ヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ・フセヴォローディチ)
結婚②:
& アンナ (メング=ティムール)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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マリーヤ・ヴァシーリエヴナと | ||||||
1 | ? | ダヴィド・コンスタンティーノヴィチ | ガーリチ=メールスキイ公 | |||
2 | ? | ミハイール・グレーボヴィチ | ベロオーゼロ公 | |||
3 | ミハイール | 1265- | ||||
アンナと | ||||||
4 | ダヴィド | -1321 | ヤロスラーヴリ | |||
5 | コンスタンティーン |
第13世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
ヤロスラーヴリ系モノマーシチの始祖。
父については詳細は一切不明。いつ死んだかもわかっていない。当然ロスティスラーヴィチ兄弟の生年や前半生についてもわかっていない。
しかしフョードル・ロスティスラーヴィチがグレーブとミハイールの弟だったのは確かなようだ。年代記によれば、父の死後、ふたりの兄は遺領分割においてフョードル・ロスティスラーヴィチには都市をモジャイスクひとつしか与えなかったという。もっとも、だからと言って兄たちがではどこを相続したのかはよくわからない。なお、長兄グレーブは1240年代(これもはっきりしない)にスモレンスク大公位を継いだようだ。
1249年、ヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ・フセヴォローディチが死去。跡を継いだ弟のコンスタンティーン・フセヴォローディチも1255年(57年?)に死去。いずれも男子を残さず、弟もいなかった。このためヤロスラーヴリ公領は宙に浮くことになった。
1261年になって、ヴァシーリイ・フセヴォローディチの未亡人クセーニヤがフョードル・ロスティスラーヴィチに目をつけ、これを娘婿として招く。こうしてフョードル・ロスティスラーヴィチは、ルーシでも希有な例として、女系を通じて分領を相続した。
なおフョードル・ロスティスラーヴィチは、当時はまだほんの小さな地方都市でしかなかったモジャイスクを棄て、ヤロスラーヴリに住んだ。とはいえ、そこには夫の死後権力を握り続けてきた公妃クセーニヤがおり、フョードル・ロスティスラーヴィチも姑との関係で悩んだかもしれない。
その数年後、正確な年代は不明だが(1270年代前半?)、フョードル・ロスティスラーヴィチはサライへ。この時ハーンの好意を得て、娘との結婚を提案されたらしい。これを受けたとも、重婚はできないと拒否したとも言われる。
しかしかれの不在中、妻マリーヤが死去。フョードル・ロスティスラーヴィチが帰還すると、ヤロスラーヴリ市民は息子のミハイール・フョードロヴィチを公として担ぎ、フョードル・ロスティスラーヴィチの入城すら拒否した。これにはまだ権力を握り続けたい公妃クセーニヤの思惑が働いていたとも言われる。
サライに戻ったフョードル・ロスティスラーヴィチは、そこでアンナと再婚(アンナの素性については、ノガイの娘、トクタの娘とする説などもあって、よくわからない)。ハーンのもとで、その親族として暮らした。
そうこうする内、ミハイール・フョードロヴィチが幼年で死去。フョードル・ロスティスラーヴィチはハーンの認可状をもらい、家族を引き連れてヤロスラーヴリへ。今度は市民もフョードル・ロスティスラーヴィチを受け入れた(もっとも逆にこの時も抵抗し、武力に屈服したとの説もある)。
ちなみにフョードル・ロスティスラーヴィチが年代記に初登場するのは、1276年のこと(ヤロスラーヴリ公として)。
なお、この時のことかのちの話かは不明ながら、フョードル・ロスティスラーヴィチは1277年から1278年にかけてサライに滞在していた。この時メング=ティムールはルーシ諸公を引き連れてカフカーズ遠征に赴いており、フョードル・ロスティスラーヴィチもこれに従軍したらしい。
1278年と79年に、グレーブとミハイールの兄ふたりが相次いで死去。フョードル・ロスティスラーヴィチが年長権によりスモレンスク大公位を継いだ。
しかしフョードル・ロスティスラーヴィチの大公位は不安定だったようで、その要因が、兄の息子たち、具体的にはグレーボヴィチ兄弟がかれの大公位相続に不満を持っていたからであるとされる。
しかし、グレーボヴィチ兄弟が不満を覚える謂われはない。大公位が兄から弟へ継承されるのは当時のルーシでは当たり前のことであり、父から子へ継承されるのは例外的であった(弟も兄の子もいない場合など)。
分領についての不満があったのかもしれないが、当時のスモレンスクではモジャイスク、ヴャージマ、フォミンスク以外に分領の存在は確認できない(トローペツ公領でも公の存在が確認できない)。兄のミハイールもスモレンスク大公となる前の分領はよくわからないし、弟のコンスタンティーンやその子たちに至っては終生どこを領有したのかまるで不明である。分領が不明(あるいは持たなかった)のは、何もグレーボヴィチ兄弟に限った話ではないのだ。
とはいえ、領土を巡る一族間の争いが常習化していたことを思えば、グレーボヴィチ兄弟の不満もあるいはそんなところにあったのかもしれない。ましてやもしグレーボヴィチ兄弟が分領を持たなかったとしたら(可能性は低いとは思うが)、一族に分領が分け与えられるのが慣習化していた当時のルーシにあっては、グレーボヴィチ兄弟が不満を覚えるのも当然であろう。
あるいは、ヤロスラーヴリを継いで、言わば他家に養子に出されたフョードル・ロスティスラーヴィチがいまさら本家を継ぐということに違和感を覚えたのかもしれない(そういう日本的な感覚が当時のルーシにあったかどうかはわからないが)。
1286年、ブリャンスク公ロマーン老公がスモレンスクに侵攻。郊外を攻略されるが、スモレンスクは陥落せず。
1292年、他の諸公とともにサライへ。ヴラディーミル大公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチに対する不満を訴える。トフタは大軍を貸し与え、ルーシ諸公はヴラディーミルへ。ドミートリイ・アレクサンドロヴィチは逃亡し、フョードル・ロスティスラーヴィチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイを占領した。
しかしやがてドミートリイ・アレクサンドロヴィチは、反対派の頭目である弟のアンドレイ・アレクサンドロヴィチと講和。フョードル・ロスティスラーヴィチはペレヤスラーヴリ=ザレスキイを明け渡すことを余儀なくされた。
1297年、甥のアレクサンドル・グレーボヴィチによりスモレンスクを奪われる。1298年、軍勢を催してスモレンスクを攻囲するが、得るところなくヤロスラーヴリに帰還した。
早くから聖者として敬われていたようだが、公式には1467年、ふたりの息子ともども正教会によって聖人に列せられた。