リューリク家人名録

ユーリイ・アンドレーエヴィチ

Юрий Андреевич

ガーリチヴォルィニ公 князь Галицкий и Владимирский
ガリツィア・ロドメリア王 rex Galiciae et Lodomeriae

生:?
没:1336頃

父:ガーリチ公アンドレイ・ユーリエヴィチガーリチ公ユーリイ・リヴォーヴィチ
母:?

結婚:?

子:?

第16世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。

 1340年、アンドレイ・ユーリエヴィチの娘婿リウバルタス(リトアニア大公ゲディミナスの子)がガーリチヴォルィニ公となった。父アンドレイと伯父(叔父?)レフのユーリエヴィチ兄弟が1323/24年に死んだ後、16/17年間のガーリチ=ヴォルィニについては、よくわからない。
 そもそもユーリイ・アンドレーエヴィチの存在それ自体が問題であり、アンドレイ・ユーリエヴィチには男子はなかったとする史料もある。

 この間ガーリチ=ヴォルィニを支配していたのが誰か、諸説ある中で候補者として挙げられているのは、ユーリイ・アンドレーエヴィチのほかに、レフ・ユーリエヴィチの子ヴラディーミル・リヴォーヴィチ(こちらも実在が疑わしい)、そして «ユーリイ2世»、すなわちポーランド語名ボレスワフ・マゾヴィェツキ(叔母? 姉? マリーヤとマゾフシェ公トロイデン1世との間の子)の3人である。
 ひとつがユーリイ・アンドレーエヴィチとするもの。1336年頃にユーリイ・アンドレーエヴィチが死ぬと、ボレスワフ・マゾヴィェツキ(ロシア語ではボレスラーフ・マゾヴェーツキイ)がガーリチヴォルィニ公となる。しかしボレスラーフは1340年に毒殺され、リウバルタスガーリチヴォルィニ公となった。
 第2がヴラディーミル・リヴォーヴィチとするもの。リトアニア系の史料によると1340年にヴラディーミル・リヴォーヴィチが死に、リウバルタスガーリチヴォルィニ公となった。
 第3はその変形で、ポーランド系の史料によると、ボヤーリンたちがヴラディーミル・リヴォーヴィチを追い、代わりにボレスラーフを公に招聘したことになっている。その時期はヴラディーミル・リヴォーヴィチが父の跡を継いですぐらしい。
 最後に、ユーリエヴィチ兄弟には跡継ぎがなく、ボレスラーフが1323/24年にガーリチヴォルィニ公となったとする史料もある。なお第3の説でも第4の説でも、ボレスラーフが1340年に毒殺されてリウバルタスガーリチヴォルィニ公となったとする点では一致している。

 ボレスラーフはしばしば «ユーリイ2世» と呼ばれているが、その場合のユーリイ1世とは祖父のユーリイ・リヴォーヴィチのこと。つまり、ユーリイ・アンドレーエヴィチは存在しなかったことになる。

 リウバルタスは1323/24年の時点でルーツクを中心とする東ヴォルィニを獲得していたとする史料もある。また第3説の根拠となっているポーランド系の史料では、ガーリチ=ヴォルィニの実権はドミートリイ・デトコ(デティコ)を中心とするボヤーリンたちに握られていたとされている。
 つまり、公が誰であれ、ユーリエヴィチ兄弟の死とともにガーリチ=ヴォルィニにおけるリューリコヴィチの支配は瓦解していたということだ。

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