リューリク家人名録

ヤロスラーフ・イズャスラーヴィチ

Ярослав Изяславич

トゥーロフ公 князь Туровский (1146)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1148-53)
ルーツク公 князь Луцкий (1157-80)
キエフ大公 великий князь Киевский (1174、75)

生:?
没:1180

父:ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公ムスティスラーフ偉大公
母:アグネス (神聖ローマ皇帝コンラート3世)

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1イングヴァーリルーツク
フセーヴォロドマルフリーダトゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチ
イジャスラーフ-1195
2ムスティスラーフ-1226ペレソープニツァ

第10世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。

 生年は不明だが、両親の結婚、ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ自身の経歴等から、1130年頃の誕生と見て間違いあるまい。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに次ぐ次男だったと思われるので、1130年代半ばである可能性も否定はできない。

 1146年、キエフ大公となった父からトゥーロフをもらう。しかしトゥーロフ公としての実態はまったく不明。早くも1148年にはノーヴゴロドに移されている。しかしノーヴゴロド公としての事績もよくわからないし、いつ、どのような事情でノーヴゴロド公位を叔父のスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに譲った(奪われた?)のかも不明。一説にはノーヴゴロド市民により公位から追われたとも言われる。
 その後、どこで何をしていたのか。

 1154年、父が死去。父は長年キエフ大公位を巡り、ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイと争ってきた。父の後を継いでキエフ大公となったのは叔父スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチだったが、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチユーリイ・ドルゴルーキイに敗北。兄ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチもペレヤスラーヴリを追われた。
 父はキエフ大公となって、特段どこかに分領を持っていたわけではないが、長年ヴォルィニを事実上の本領としてきた。当時ヴラディーミル=ヴォルィンスキイには父の末弟ヴラディーミル・マーチェシチがいたが、ヴラディーミル・マーチェシチユーリイ・ドルゴルーキイと結んでいたため、兄は同じくヴォルィニにあるルーツクに逃げ込んだ。
 1155年、ユーリイ・ドルゴルーキイキエフ大公となると、ルーツクに侵攻。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはヤロスラーフ・イジャスラーヴィチをルーツクに残し、ポーランドに救援要請に赴いた。結局ユーリイ・ドルゴルーキイはイジャスラーヴィチ兄弟と講和し、兄弟のルーツク領有を認めている。
 これで見ると、ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチは兄とともにルーツクにいたらしい。問題はいつからいたかで、1155年以前のルーツク公位は確認されていないものの、特段ヴォルィニとかかわりのなかった兄ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが1154年に一目散にルーツクに逃げ込んでいること、ヴォルィニは父が勢力の扶植に努めていた地域であること、ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチがノーヴゴロドから追われた1153年(頃)以降無職であること、またのちにルーツク公となること、等を考え合わせてみると、ノーヴゴロドを去った後、ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチはルーツクにいたのではないかと想像してみてもいいかもしれない(1153年当時は父がキエフ大公で、仲の良かった叔父スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公だった)。
 ただしヤロスラーフ・イジャスラーヴィチがノーヴゴロドを去ったのは1154年、父の死後だとする文献もある。その場合、あるいはペレヤスラーヴリの兄のもとに身を寄せたかもしれない。

 1157年、兄がヴラディーミル・マーチェシチを追って、自らヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となる。これによって、ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチはルーツク公とされた。
 ただしその後、兄が叔父ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを支援して、あるいは自らキエフ大公位を目指して活動している間、ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチは非常に影が薄い。

 1169年、南ルーシに侵攻したヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイユーリイ・ドルゴルーキイの子)の軍に敗北した兄がヴォルィニに逃亡してくると、これと合流。ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルとも結び、1170年にキエフに侵攻した。しかしキエフ奪還は果たせぬまま、兄はこの年、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイで死んだ。遺志はヤロスラーフ・イジャスラーヴィチが継ぐことになった。

 キエフを制圧したアンドレイ・ボゴリューブスキイは、ロスティスラーヴィチ兄弟(叔父ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの遺児)と結んで覇権を握っていたが、1171年頃に両者は決裂。チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチアンドレイ・ボゴリューブスキイ側に立ち、キエフ情勢は再び混乱に陥った。
 兄はロスティスラーヴィチ兄弟と対立しており、その結果ロスティスラーヴィチ兄弟はアンドレイ・ボゴリューブスキイと結んで兄に対峙。ヤロスラーフ・ムスティスラーヴィチも当初はこの関係を引き継いだ。しかしロスティスラーヴィチ兄弟がアンドレイ・ボゴリューブスキイと喧嘩したことから政策を転換。1172年にはロスティスラーヴィチ兄弟の支援にキエフに駆け付けた。

 この辺り、文献によって年代の混乱が著しい。
 キエフに侵攻し、ロスティスラーヴィチ兄弟の同意のもとにヤロスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公になったのは、1172年、73年、74年のいずれか。
 さらにヤロスラーフ・イジャスラーヴィチはリューリク・ロスティスラーヴィチとともにヴィーシュゴロドに侵攻し、アンドレイ・ボゴリューブスキイの派遣したヴラディーミル軍を撃退した。
 この直後、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチがオーリゴヴィチ一族を率いてキエフに侵攻。ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチはルーツクに逃げ帰ったが、妻や子はスヴャトスラーフ・フセヴォローディチの捕虜となった。
 しかしオーリゴヴィチ一族内にも内紛があり、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはチェルニーゴフに帰還。キエフに戻ったヤロスラーフ・イジャスラーヴィチは、ロスティスラーヴィチ兄弟とともにチェルニーゴフに侵攻。これを蹂躙し、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチキエフ大公位を認めさせた。
 さらに復讐の矛先は、妻子をみすみす明け渡したキエフ市民にも向けられた。

 1175年、アンドレイ・ボゴリューブスキイが死去。ヤロスラーフ・ムスティスラーヴィチとロスティスラーヴィチ兄弟を結びつけていた最大の脅威が取り除かれたことで、両者の関係もぎくしゃくしたものになり始めた。
 キエフ市民の反感も承知していたヤロスラーフ・イジャスラーヴィチは、ロスティスラーヴィチ兄弟が長兄ロマーン・ロスティスラーヴィチをスモレンスクから呼び寄せると、自発的にキエフを去ってルーツクに戻った。

 その後の消息はよくわからない。没年にしても、1178年とする文献もある。いずれにせよ、1180年の時点で年代記は息子たちの活動を伝えており、その時点ではすでに死んでいたと考えられている。

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