ヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチ
Ярослав Ингваревич
ルーツク公 князь Луцкий (1227)
ペレムィシュリ・メジボージエ公 князь Перемышльский и Межибожский (1227-)
生:?
没:?
父:ルーツク公イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチ (ルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
アンドレイ | ||||||
ボリース |
第12世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。
いろいろと不明。
父の没年も不明だが、1214年以降であるのは間違いない。しかしその遺領ルーツクは、一般的に、父の死後は叔父ムスティスラーフ聾唖公が継いだとされている。
その後ヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチがどうしていたのかは不明。あるいはまだ幼かったのか。1223年のカルカ河畔の戦いには兄弟(?)のイジャスラーフとスヴャトスラーフがムスティスラーフ聾唖公に従って従軍し、戦死している。ヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチが従軍しているかどうかは不明。
1226年、ムスティスラーフ聾唖公が死去。その子イヴァン・ムスティスラーヴィチも1227年に死んだらしい。
その1227年、ダニイールとヴァシリコのロマーノヴィチ兄弟(又従兄弟)がルーツクに侵攻してこれを併合している。ダニイール・ロマーノヴィチはヴァシリコ・ロマーノヴィチにルーツク、ペレソープニツァ、ブレストを、ヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチにはペレムィシュリ(ヴォルィニの)、メジボージエを与えた。
ルーツクはヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチの «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» であり、おそらくイヴァン・ムスティスラーヴィチの死後はヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチが領有したのではないかと想像される。しかし、あるいはこの措置にヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチは不満を覚えなかったのか、翌1228年にキエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチ、チェルニーゴフ公ミハイール真紅公、ポーロヴェツ人のコテャン・ハーンの連合軍がヴォルィニに侵攻した際には、ロマーノヴィチ兄弟とともにこれを迎え撃っている。