リューリク家人名録

ロマーン・ダニイーロヴィチ

Роман Даниилович

ノヴォグルードク公 князь Новогруд(нен)ский (1255-60)

生:?
没:1260頃

父:ガリツィア王ダニイール・ロマーノヴィチガーリチヴォルィニ公ロマーン偉大公
母:アンナ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公

結婚①:1254
  & ゲルトルート 1228-88 (ハインリヒ〔オーストリア公レーオポルト6世栄光公〕
                   (モラヴィア辺境伯ヴラディスラフ未亡人)
                   (バーデン辺境伯ヘルマン5世未亡人)

結婚②:1256
  & エレーナ公女 (ステパニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ゲルトルートと
?
母親不詳
1ミハイール
2ヴァシリコ

第13世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。

 ダニイーロヴィチ5兄弟の生年ははっきりしないが、おおよそ1230年前後と考えられているようだ(が、特段の証拠があるわけではない)。
 レフが1250年、ロマーンが1254年、シュヴァルンが1255年に結婚したとされているので、長幼の順もこれに準ずるのではないかと想像される(ただし結婚した年については異説も多く、ロマーンとシュヴァルンの順は入れ替えられることがある)。なおムスティスラーフについては、おそらくどの文献も末弟ということで一致しているようである。

 年代記に初登場するのは1251年。1253年には父に従いリトアニアに遠征して、ゴロデン(?)を占領している。

 1254年、父によりゲルトルート(ロシア語では通常ゲルトルーダ)と結婚させられた。
 オーストリアでは1246年にフリードリヒ2世が死に、バーベンベルク家が断絶。血縁としては、姉マルガレーテと姪ゲルトルートのふたりがいるだけで、ゲルトルートと結婚したヴラディスラフ、ヘルマンが相次いでオーストリア公を名乗った。しかし隣接するボヘミアのプシェミスル・オタカル2世がマルガレーテと結婚し、これを制圧する。
 1250年に兄(?)レフ・ダニイーロヴィチがハンガリー王ベーラ4世の娘と結婚したが、ベーラ4世もまたオーストリアに野心を燃やしていた。父がロマーン・ダニイーロヴィチをゲルトルートと結婚させたのも、ベーラ4世の合意のもとにオーストリアを継承させようとしたものである。
 ロマーン・ダニイーロヴィチはヴィーン近郊のノイブルクに進駐する。しかしベーラ4世は積極的にロマーン・ダニイーロヴィチを支援しようとはせず、プシェミスル・オタカルの攻撃を受けたロマーン・ダニイーロヴィチは、妻を連れてガーリチに逃げ帰った。
 ロマーン・ダニイーロヴィチのオーストリア公位獲得は、1260年、父とベーラ4世の連合軍がモラヴァ河畔の戦いでプシェミスル・オタカルに敗北したことで最終的に潰えた。もっとも、ロマーン・ダニイーロヴィチは早くも1256年にはゲルトルートと離婚していたとする史書もある(子供は娘ひとり?)。

 1255年、父はリトアニア大公ミンダウガスと講和。これにより獲得したノヴォグルードクをロマーン・ダニイーロヴィチに与えた(ノヴォグルードクは現ベラルーシ西部、のち西欧で黒ルテニアと呼ばれた地域)。ただしミンダウガスの宗主権は認めさせられたらしい。
 とはいえ、1250年代後半、モンゴルのリトアニア遠征に父も協力させられている。ロマーン・ダニイーロヴィチも1256年には父とともにヤトヴャーギ人(リトアニア南西部のバルト系民族)に遠征したほか、何度かリトアニアと戦っている。

 ロマーン・ダニイーロヴィチのその後についてはよくわからない。
 リトアニア遠征に対する報復として、1258年にリトアニア軍がノヴォグルードクに侵攻して殺された、とする史書もある。
 1260年にヴァイシュヴィルカスミンダウガスの子)がノヴォグルードクに侵攻してロマーン・ダニイーロヴィチは捕虜となったが、父によって救い出された、とする史書もある(その場合、いつどこで死んだかは不明)。
 1260年のモラヴァ河畔の戦いの直後に死去し、ホルムに埋葬された、とする史書もある(ただし死因は記されていなかったので、リトアニアに殺されたとする説とも両立し得る)。

 息子ミハイール・ロマーノヴィチについては、ドルツキイ家の祖であるミハイール・ロマーノヴィチ・ドルツキイであるとする説がある。

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