リューリク家人名録

ムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ «ネモーイ»

Мстислав Ярославич "Немой"

ペレソープニツァ公 князь Пересопницкий (1180-1226)
ガーリチ公 князь Галицкий (1212)
ルーツク公 князь Луцкий (1214?-26)

生:?
没:1226

父:ルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1イヴァン-1227ルーツク

第11世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。

 いろいろと不明だが、父親が1130年頃の生まれと想像されること、従兄弟も1150年頃の誕生であること、等から、ヤロスラーヴィチ兄弟の生年も、早くて1150年頃と見ていいだろう。下限は当然父の死だろうが、1180年代からポツポツと年代記に登場することも考えると、1170年頃までには生まれていたと見ていいだろう。
 父の没年もよくわからないが、一般にイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチルーツク公位を継いだとされている(かれが長男だったのだろう)。ムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチはペレソープニツァを分領としてもらったとされるが、ほかにもフセーヴォロド、イジャスラーフという兄弟がいたとされるものの、かれらについては分領が推定されていない(それどころか何もわかっていない)。つまりムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチにしても、父の死でペレソープニツァをもらったのか、その後イングヴァーリからもらったのか、あるいはほかの誰か(たとえば従兄弟のヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ロマーン偉大公)からもらったのか、そこら辺ははっきりしないということだ。

 1183年、キエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチベールゴロド公リューリク・ロスティスラーヴィチ、さらにはガーリチやペレヤスラーヴリの軍勢とともに、ポーロヴェツ人に対する遠征に従軍。

 1205年、従兄弟のガーリチヴォルィニ公ロマーン偉大公が死去。
 ロマーン偉大公は «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» としてヴラディーミル=ヴォルィンスキイを支配していたが、さらに1199年にはガーリチも併合し、キエフすらその覇権下に置いていた。しかし遺児ダニイール・ロマーノヴィチは当時まだ4歳。オーリゴヴィチ一族のイーゴレヴィチ兄弟、ハンガリーがガーリチを狙い、ヴォルィニも含めてその遺領は混乱に陥った。
 1207年、ポーランド王レシェク1世白髪王とマゾフシェ公コンラトの兄弟がヴォルィニに侵攻し、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチをヴラディーミル=ヴォルィンスキイから追った。これにはアレクサンドル・フセヴォローディチとともにムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチも従軍していた。
 レシェク白髪王は、兄イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公に擁立。おそらくヴォルィニ系一族の最年長だったからだろう。しかしすぐにレシェク白髪王により公位を追われた。

 ガーリチにおける混乱の元凶は、誰が公であろうと公の権力に反発し続ける土着のボヤーリンたちであったと言っていいだろう。当時最大の実力者はヴラディスラーフ、スディスラーフ、フィリップという3人のボヤーリンだった。1211年、かれらはハンガリー軍を誘ってガーリチからイーゴレヴィチ兄弟を追い、ダニイール・ロマーノヴィチを復位させているが、これにはムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチも支援している。その後ハンガリー軍がこの3人のボヤーリンを捕らえ、ダニイール・ロマーノヴィチ(正確にはその母后)にガーリチの実権を取り戻させているが、これには兄イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチも加担していたらしい。
 この時逃れたヴラディスラーフの兄弟ふたりが救援を求めたのが、ほかならぬムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチだった。1212年、ふたりを支援したムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチの軍を前に、ガーリチのボヤーリンは挙って屈し、ダニイール・ロマーノヴィチはハンガリーに逃亡した。こうしてムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチは、自身が一旦確立したダニイール・ロマーノヴィチの支配を覆し、ガーリチ公となった。
 しかしムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチが公となると、ガーリチのボヤーリンたちはさっそく掌を返す。特に、ハンガリー王の捕虜となりながら取り入ることに成功したヴラディスラーフの説得に応じて、1213年、ハンガリー軍がガーリチに侵攻。ムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチは退却を余儀なくされた。
 レシェク白髪王と同盟したムスティスラーフ・ヤロスラーヴィチは、再びガーリチに侵攻。ヴラディスラーフの軍を破りはしたものの、ガーリチを征服することはできなかった。

 兄イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチがいつ死んだかは不明だが、その死後遺領ルーツクを支配したらしい。

 1223年、カルカ河畔の戦いにはダニイール・ロマーノヴィチとともに、甥イジャスラーフとスヴャトスラーフ(兄イングヴァーリの子?)を連れて従軍している。

 その死に臨み、自分と息子イヴァンの «ヴォーッチナ» をダニイール・ロマーノヴィチに譲渡。他方、ルーツクは甥ヤロスラーフ・イングヴァーレヴィチが継いだ。

 添え名の «ネモーイ» は「唖の(言葉が話せない)」という意味。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system