ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチ
Мстислав Даниилович
ルーツク公 князь Луцкий
ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公 князь Владимирский (1289-)
生:?
没:1292?
父:ガリツィア王ダニイール・ロマーノヴィチ (ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公)
母:アンナ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
ダニイール |
第13世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。
ダニイーロヴィチ兄弟については、その生年も長幼の順もはっきりしない。しかし一般的にムスティスラーフが末男とされているようだ。実際、早世したと思われるイラークリーを除き、みなそれぞれに活躍しているダニイーロヴィチ兄弟の中にあって、ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチはいかにも影が薄い。年代記への登場もひときわ遅い。
ちなみに、ダニイーロヴィチ兄弟の生年は1230年前後と考えられている。末弟だったとしたら、ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチの生年は、あるいは1230年代後半だったかもしれない。
1264年、父が死去。この時点で生き残っていたダニイーロヴィチ兄弟は、ムスティスラーフを除けば長兄のレフと次兄のシュヴァルンだけだった。ヴォルィニは叔父のヴァシリコ・ロマーノヴィチが領有していたため、ダニイーロヴィチ兄弟はガーリチを分割することになったはずだが、どうやらガーリチはレフとシュヴァルンのふたりによって分割されたらしい。少なくともムスティスラーフの名は出てこない。
ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチの肩書きをルーツク公としている文献を時折見かけるが、ルーツクはヴォルィニにあり、ヴァシリコ・ロマーノヴィチに所属していて、ダニイーロヴィチ兄弟の «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» ではない。
1269年、そして1273年から74年にかけて、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ヴラディーミル・ヴァシリコヴィチを支援し、兄レフ・ダニイーロヴィチとともにヤトヴャーギ人への遠征に従軍。1285年のハンガリー遠征、1287年のポーランド遠征にも、モンゴル軍とともに従軍する。
1288年、従兄弟のヴラディーミル・ヴァシリコヴィチは、子がなかったため、死に臨んでヴラディーミル=ヴォルィンスキーをムスティスラーフ・ダニイーロヴィチに遺贈する。
ところがこれに、甥のユーリー・リヴォーヴィチが反発。ブレストの割譲を要求してくる。ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチが拒否すると、武力でブレスト、カーメネツ、ベリズを占領してしまった。ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチは、兄と甥に対して抗議。兄の諌めで甥は占領地をムスティスラーフ・ダニイーロヴィチに返還した(が、焼き打ちした上で)。
ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチについてはほかに知られるところがなく、没年すらはっきりしない。