リューリク家人名録

レフ・ダニイーロヴィチ

Лев Даниилович

ガーリチ公 князь Галицкий (1264-1301)
ガリツィア・ロドメリア王 rex Galiciae et Lodomeriae (1264-1301)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公 князь Владимирский (-1301)

生:?
没:1301

父:ガリツィア王ダニイール・ロマーノヴィチガーリチヴォルィニ公ロマーン偉大公
母:アンナ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公

結婚:1250
  & コンスタンツィア 1237-76 (ハンガリー王ベーラ4世)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ユーリー1252?-1316?ガーリチクセーニヤ-1286トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ
エウフェミア-1308クヤヴィ公カジミェシュ
2アナスタシーヤ-1335シェモヴィト1265-1312ドブジニ公
3スヴャトスラーヴァ-1302修道女

第13世代。モノマーシチ(ヴォルィニ系)。

 ダニイーロヴィチ兄弟については、長幼の順、生年など、不明な点が多い。
 父の生年が1201年であり、そもそも両親の結婚が1210年代後半(これもはっきりしない)なので、ダニイーロヴィチ兄弟が生まれたのは当然それ以降ということになる。
 ダニイーロヴィチ兄弟のうち、レフの結婚が1250年、ロマーンの結婚が1254年、シュヴァルンの結婚が1255年とされているところを見ると、長幼の順もこの通りかとも思えるが、長幼の順と結婚の順とが逆転するのは珍しくないことを考慮すると、あまりあてにはならない。
 一般的には、イラークリー、レフ、ロマーンシュヴァルンムスティスラーフの順とされているようだ(シュヴァルンは三男とされることもある)。生年については、おおよそ1230年プラスマイナス5年と見られているようだ、レフ・ダニイーロヴィチの場合は1220年代後半というところだろう。
 なお、イラークリー・ダニイーロヴィチは1240年の父の逃避行で言及されていないので、それ以前に死んでいたのだろう。イラークリー・ダニイーロヴィチが長男であったとしても、歴史に登場する以前に姿を消し、レフ・ダニイーロヴィチが事実上の長男となった。

 1240年、モンゴルの襲来により、父とともに逃亡。父はハンガリー王ベーラ4世に救援を求め、関係強化のためレフ・ダニイーロヴィチをベーラ4世の娘と結婚させようとする。しかしベーラ4世は救援を断り、結婚話も流れた。

 この当時はまだ父のガーリチ支配も不安定で、レフ・ダニイーロヴィチも叔父のヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ヴァシリコ・ロマーノヴィチとともにロスティスラーフ・ミハイロヴィチと戦っている。
 ベーラ4世の後押しを受けていたロスティスラーフ・ミハイロヴィチが1245年に最終的にガーリチ征服を断念してハンガリーに逃げ帰ったことで(決定的なヤロスラーヴリの戦いにはレフ・ダニイーロヴィチも従軍している)、かつて流れたレフ・ダニイーロヴィチとベーラ4世の娘との結婚話が再び持ち上がったものと思われる(ロスティスラーフ・ミハイロヴィチもベーラ4世の娘婿だった)。1250年(47年、51年など異説も多い)、レフ・ダニイーロヴィチはコンスタンツィアと結婚する。

 1253年と54年、父に従いヤトヴャーギ人(バルト系民族)遠征。

 父がモンゴルの支配に抵抗した際には、レフ・ダニイーロヴィチもこれに同調。軍を率いてこの地方のバスカーク(代官)のクレムサと戦っている。しかし1258/59年に後任のバスカークとしてブルンダイがリトアニア遠征への従軍を要求してきた時には、父の代わりにレフ・ダニイーロヴィチがガーリチ軍を率いてモンゴル軍に同行している。

 1264年、父が死去。レフ・ダニイーロヴィチが長男として、父がローマ教皇から授かったガリツィア・ロドメリア王位を継いだ。
 もっとも、当時のガーリチ=ヴォルィニ公国では、ほぼヴォルィニ全土を叔父ヴァシリコ・ロマーノヴィチ(その死後はその子ヴラディーミル・ヴァシリコヴィチ)が支配。ダニイーロヴィチ兄弟のうち、すでにイラークリーとロマーンが死んでおり、レフ・ダニイーロヴィチはシュヴァルンとガーリチを分割した(なぜかムスティスラーフの名は出てこない。まだ幼かったのか?)。
 Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 は何に依ったか、この時王位を継いだのはシュヴァルン・ダニイーロヴィチだとしている。シュヴァルン・ダニイーロヴィチがホルム(現ヘウム、ポーランド)を相続したとも言われるが(レフ・ダニイーロヴィチはペレムィシュリ)、ホルムは父がガーリチに代わる新たな首都として建設した都市である。あるいはこのことから、「シュヴァルン・ダニイーロヴィチがガリツィア王位を継いだ」と思われたのかもしれない。

 リヴォーフという都市は、年代記では1256年の項に初登場し、父により建設され、レフ・ダニイーロヴィチにちなんで名づけられたとされている。その一方で、ちょうどこの頃、ほかならぬレフ・ダニイーロヴィチにより建設されたとする説もある。
 いずれにせよ、レフ・ダニイーロヴィチはその分領の主都としてリヴォーフに居を構えた。
 なお、このことからすると、レフとシュヴァルンの兄弟がガーリチを分割したとしたら、レフ・ダニイーロヴィチが南半、シュヴァルン・ダニイーロヴィチが北半を領有したということになろう。

 しかしシュヴァルン・ダニイーロヴィチはガーリチの半分を領有しただけではなく、ミンダウガスの娘婿として、リトアニアにも支配権を及ぼした。
 1263年にリトアニア大公ミンダウガスがサモギティア公トレニオタに殺されると、遺児ヴァイシュヴィルカスシュヴァルン・ダニイーロヴィチの支援を得てトレニオタに対抗。トレニオタが暗殺されると、ヴァイシュヴィルカスリトアニア大公となった。しかしそのヴァイシュヴィルカスも、もともと正教に改宗して修道士となっており、世俗事に対する関心や執着も薄れていたのかもしれないが、1267年には再び修道院に戻って、リトアニア大公位をシュヴァルン・ダニイーロヴィチに譲った。
 レフ・ダニイーロヴィチは自らリトアニア大公位を狙っており、そのため弟に大公位を譲ったヴァイシュヴィルカスとの間に喧嘩が持ち上がったらしい。1268年、ヴァシリコ・ロマーノヴィチが仲裁してふたりを会わせたが、レフ・ダニイーロヴィチは酒を飲んで酔っ払った挙句にヴァイシュヴィルカスを殺してしまった。

 この辺り正確なところがはっきりしないが、1269年か70年に、シュヴァルン・ダニイーロヴィチヴァシリコ・ロマーノヴィチが相次いで歴史の舞台から退場した(シュヴァルン・ダニイーロヴィチリトアニア大公位を失い、ヴァシリコ・ロマーノヴィチは修道士となって、それぞれその後死んだ)。ヴォルィニはそのままヴラディーミル・ヴァシリコヴィチが相続したが、弟の遺領はレフ・ダニイーロヴィチが継承し、ガーリチ一円に支配権を打ち立てた(末弟ムスティスラーフとガーリチを分割しようとはしなかったらしい)。
 なお、レフ・ダニイーロヴィチはその後もリヴォーフに居住し続けた。以降ガーリチの主都はリヴォーフに移る。

 レフ・ダニイーロヴィチは、自らがリトアニア大公位を望んでいたこともあり、シュヴァルン・ダニイーロヴィチから大公位を奪ったトライデニスと対立。特に、父の代からガーリチ=ヴォルィニとリトアニアとの係争地であったノヴォグルードク、グロドノ、スローニムなどを巡り争うが、結局レフ・ダニイーロヴィチはこれらの地を奪回することができなかった。

 ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ヴラディーミル・ヴァシリコヴィチのヤトヴャーギ人との戦いを支援。1269年、73年、74年と、相次いで弟ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチとともにヴラディーミル・ヴァシリコヴィチのヤトヴャーギ人遠征に従軍している。

 1279年、ポーランド王ボレスワフ5世純潔王が子なくして死去。ボレスワフ純潔王と同じくベーラ4世の娘婿だったレフ・ダニイーロヴィチはポーランド王位の継承に野心を持ったらしい。
 現実には、ウェンチツァ公レシェク黒公が最大の候補者で、レフ・ダニイーロヴィチもクラクフに侵攻するものの、最終的にはレシェク黒王が勝利した。しかしレフ・ダニイーロヴィチは、その後もレシェク黒王との戦いを続ける(ちなみに娘婿のドブジニ公シェモヴィトはレシェク黒王の弟)。

 1280年代のレフ・ダニイーロヴィチは西方にて積極的に領土拡大を推進する。
 1280年頃にはカルパティア山脈を越え、その南西のムカーチェヴォ(現ウクライナ)を占領する(のち失う)。この地域はのちに西欧で «カルパティア・ルテニア» と呼ばれることになる地域。
 1283年と87年、モンゴル軍に従軍してポーランドに侵攻する。
 1288年、レシェク黒王が死去。レフ・ダニイーロヴィチはこの混乱に乗じてルブリンを占領(のち失われる)。妹(?)ペレヤスラーヴァの子であるプウォツク公ボレスワフ2世を支援してポーランド情勢に介入し、1289年にはシロンスク(シレジア)にまで侵攻。1290年にもボレスワフ2世を支援して、シロンスク公ヘンリク4世・プロブスと戦っている。

 1292年頃、弟のヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ムスティスラーフ・ダニイーロヴィチが死去。レフ・ダニイーロヴィチがヴォルィニを継いだ。これにより、ガーリチ=ヴォルィニには(おそらく)レフ・ダニイーロヴィチ以外の公がいなくなり、レフ・ダニイーロヴィチがガーリチ=ヴォルィニ全体の唯一の支配者となった。

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