リューリク家人名録

聖ユーリー・フセヴォローディチ

Св. Юрий Всеволодич

ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1212-16、18-38)
ゴロデーツ公 князь Городецкий (1216-17)
スーズダリ公 князь Суздальский (1217-18)

生:1187/88/89.11.27−スーズダリ
没:1238.03.04−シーティ川

父:ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー
母:マリーヤ・シュヴァルノヴナ (ボヘミア王女)

結婚①:
  & ?

結婚②:1211
  & アガーフィヤ公女 -1238 (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アガーフィヤ・フセーヴォロドヴナと
1フセーヴォロド1214-38ノーヴゴロドマリーナスモレンスク公ヴラディーミル・リューリコヴィチ
2ヴラディーミル1215-38モスクワフリスティーナ1219-38
3ドブラーヴァ-1265ヴァシリコ・ロマーノヴィチ1203-69ヴォルィニ公
4ムスティスラーフ-1238マリーヤ1220-38
5フェオドーラ1229-38

第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名ゲオルギー(ユーリー)。フセーヴォロド大巣公の次男(上にグレーブとボリースという兄がいたようだが、早世している)。

 1208・09年、モスクワを攻略したリャザニ系一族の残党イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ & ミハイール・フセヴォローディチを撃退する。

 1212年、父が死去。
 父の生前の意図は、長男コンスタンティーン賢公に新都ヴラディーミルを、次男ユーリー・フセヴォローディチに古都ロストーフを与えようというものだった。しかしもともとロストーフを分領としていたコンスタンティーン賢公がこれに反発。ヴラディーミルもロストーフもよこせと要求したことから、父と兄の関係が悪化。父はコンスタンティーン賢公を廃嫡し(ロストーフの領有は認めた)、ユーリー・フセヴォローディチを跡継ぎとした。
 父の死でユーリー・フセヴォローディチがヴラディーミルを継承。この時、弟のヤロスラーフにペレヤスラーヴリ(=ザレスキー)、ヴラディーミルにユーリエフ=ポリスキーを分領として与える。
 なお、これがヴラディーミル大公領を4等分したものなのか、それとも数都市を与えただけなのかはよくわからない。いずれにせよ、これによって、祖父ユーリー・ドルゴルーキー、伯父アンドレイ・ボゴリューブスキー、父フセーヴォロド大巣公と、3代にわたって受け継がれてきた北東ルーシの統一(いずれも領内に分領を設けなかった)は崩れた。次男でありながらヴラディーミル大公位を継ぐというユーリー・フセヴォローディチの立場の弱さが、伯父や父のように一族を放逐するという独裁者的行為を許さず、逆に弟たちを味方につけるために分領を分け与えざるを得なくさせたのかもしれない。

 当然この事態にコンスタンティーン賢公は不満を覚える。両者の対立は弟たちを巻き込み、ヤロスラーフスヴャトスラーフイヴァンがユーリー側についたものの、ヴラディーミルコンスタンティーン賢公側に立った。
 1213年、ユーリー・フセヴォローディチはヴラディーミル・フセヴォローディチの立てこもるモスクワを攻略し、ヴラディーミル・フセヴォローディチを南ルーシに追ってユーリエフ=ポリスキーをスヴャトスラーフ・フセヴォローディチに与えた。この時ヴラディーミル・フセヴォローディチは、南ルーシでペレヤスラーヴリ=ユージュヌィーの公となっている。ペレヤスラーヴリ=ユージュヌィーは、1155年に祖父ユーリー・ドルゴルーキーキエフ大公となって以来、ヴラディーミル系一族が公位を独占してきた、言わばヴラディーミル系一族の «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» であり、かつ北東ルーシを基盤とするヴラディーミル系一族にとって南ルーシにおける拠点でもあった。ユーリー・フセヴォローディチにとっては、ヴラディーミル・フセヴォローディチペレヤスラーヴリ公としたことは、北東ルーシにおける敵対勢力を排除し、かつ南ルーシにおける拠点を確保するという一石二鳥の効果を持ったと言えるだろう。
 フセヴォローディチ兄弟の内紛はその後も続き、1214年にも両軍は激突するが、その場限りの講和を結んだだけで、決着はつかなかった。

 なお、1207年の遠征以来、父はリャザニを占領し、捕虜としたリャザニ系諸公を投獄したままだった。ユーリー・フセヴォローディチは父の跡を継ぐと、リャザニ系諸公を釈放。ロマーン・イーゴレヴィチリャザニ公として認めた。

 1215年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチはノーヴゴロドを巡ってスモレンスク系諸公と対立。
 1216年、スモレンスク公ヴラディーミル・リューリコヴィチノーヴゴロド公ムスティスラーフ幸運公プスコーフ公ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチのスモレンスク系一族が、スモレンスク軍、ノーヴゴロド軍、プスコーフ軍を率いてヴラディーミルに侵攻。コンスタンティーン賢公と合流した。ユーリー・フセヴォローディチはムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチとも同盟し、ユーリエフ=ポリスキー近郊のリピツ河畔でこれを迎え撃つ。しかし大敗を喫し、逃げ帰ったヴラディーミルも攻囲されたユーリー・フセヴォローディチは、ヴラディーミルを棄てて逃亡した。

 ヴラディーミル大公となって兄弟間の覇権を握ったコンスタンティーン賢公だったが、この年のうちに病床に伏したらしい。ユーリー・フセヴォローディチも兄と和解し、分領としてゴロデーツ(ヴォルガ河畔の)の領有を認められた。これによりフセヴォローディチ兄弟の内紛は終息した。
 1217年、兄に呼び出されたユーリー・フセヴォローディチは、スーズダリをもらう。のみならず、兄の死後はヴラディーミル大公位を継承することが認められ、代わりにまだ幼い兄の子らを託された。
 1218年、コンスタンティーン賢公が死去。ユーリー・フセヴォローディチがヴラディーミル大公となり、ロストーフを相続した幼い甥たちの後見人となった。

 ヴラディーミル大公領は東方で非スラヴ系の多くの民族と接していた。中でも強力だったのがヴォルガ・ブルガール人である。かれらはしばしばヴラディーミル大公領に侵攻して略奪。ヴラディーミル側もかれらの土地を攻略して貢納を強制する、ということを繰り返していた。
 1220年、弟スヴャトスラーフ・フセヴォローディチをヴォルガ・ブルガール遠征に派遣。
 1221年、ユーリー・フセヴォローディチは自らブルガール人遠征に出陣し、最前線の都市ゴロデーツに陣取った。そしてさらに南東に、新たな前線拠点としてニージュニー・ノーヴゴロドを建設した。

 ノーヴゴロドでは、リピツの戦い以降スモレンスク系が覇権を握っていた。しかし党派対立が続き、ノーヴゴロド公フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチは市長トヴェルディスラーフと対立。
 1221年、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチを追い出したノーヴゴロド市民の要請により、ユーリー・フセヴォローディチは長男フセーヴォロド・ユーリエヴィチを派遣する。まだ年若い息子では不安だったのか、1222年にノーヴゴロドがリヴォニアに遠征した際には、弟スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ率いる援軍を派遣している。
 フセーヴォロド・ユーリエヴィチはやがて公位を放擲して戻ってきてしまい、ユーリー・フセヴォローディチは弟ヤロスラーフ・フセヴォローディチを派遣する。1223年には再びフセーヴォロド・ユーリエヴィチを送り込んだ。

 1223年、カルカ河畔の戦いには甥のロストーフ公ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチを派遣する(が、間に合わず、そのまま帰還した)。

 その後もノーヴゴロドにおけるごたごたは続いたようで、1224年、ノーヴゴロドが反抗。フセーヴォロド・ユーリエヴィチはトルジョークに逃亡し、ユーリー・フセヴォローディチもトルジョークに軍を進めた。ノーヴゴロドに妻の兄のミハイール・フセヴォローディチを公として迎えさせ、撤退した。
 そのミハイール・フセヴォローディチは、チェルニーゴフ公位を獲得せんと、ノーヴゴロドを去って南下。ユーリー・フセヴォローディチはノーヴゴロドに再びヤロスラーフ・フセヴォローディチを送り込む一方、軍を派遣してミハイール・フセヴォローディチを支援。オレーグ・クールスキーを追ってミハイール・フセヴォローディチチェルニーゴフ公とした(この辺り時系列がよくわからないが、チェルニーゴフ公位を巡るごたごたは1223年のカルカ河畔の戦い直後から1226年まで続いていたようだ)。

 1225年(26年)、リトアニア人がスモレンスク公領ノーヴゴロド公領に侵攻。これを撃退したのは、スモレンスク公ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチではなく、弟のノーヴゴロド公ヤロスラーフ・フセヴォローディチだった。

 ニージュニー・ノーヴゴロドの建設は、さらに南方のモルドヴァー人との戦いを呼んだ。1226年、弟のスヴャトスラーフイヴァンを派遣し、モルドヴァー人を破る。1228年にはヤロスラーフとともに、ユーリー・フセヴォローディチ自らモルドヴァー遠征。1232年にも息子フセーヴォロド・ユーリエヴィチを派遣し、ムーロム軍・リャザニ軍と共同でモルドヴァー人を攻略させた。

カタカナで書くと区別できないが、ロシア語にはふたつの «モルドヴァ» が存在する。ひとつは現ルーマニア東部の国家で、かつては «モルダヴィア» と呼ばれた。当コンテンツではこちらは «モルドーヴァ Молдова (Moldova)» と表記する。もうひとつはヴォルガ中流域のウラル系少数民族で、こちらは «モルドヴァー Мордва (Mordva)» と表記する。ラテン文字表記を見てもわかる通り、両者はスペルも発音もまったく異なる。

 1228年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチは、ノーヴゴロド市民と対立してペレヤスラーヴリ=ザレスキーに帰還。ノーヴゴロド市民の反抗には兄の後押しがあったのではないかと疑ったヤロスラーフ・フセヴォローディチは、甥のコンスタンティーノヴィチ兄弟とともにユーリー・フセヴォローディチに反抗する。ここでユーリー・フセヴォローディチは、兄の死後初めてその遺児たちと対立した。
 1229年、兄弟(と甥)はスーズダリで会談し、和解した。

 当時チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチは、ガーリチとヴォルィニのロマーノヴィチ兄弟と敵対するキエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチと結んでいた。しかしヴォルィニのヴァシリコ・ロマーノヴィチは、ユーリー・フセヴォローディチの娘婿であった。
 1230年、ユーリー・フセヴォローディチはチェルニーゴフに侵攻。戦闘には至らなかったようで、この後ミハイール・フセヴォローディチは外交政策を転換し、ヴラディーミル・リューリコヴィチと対立するようになった。
 なお、これに伴い、ノーヴゴロド公には再びヤロスラーフ・フセヴォローディチが就任した。

 1236年、モンゴルに追われたブルガール人が大量にヴラディーミル大公領に亡命してくる。ユーリー・フセヴォローディチはこれを受け入れ、ヴォルガ沿岸部に植民させた。
 この年、弟のヤロスラーフ・フセヴォローディチがノーヴゴロド軍を率いて南下。南ルーシに大きな影響力を持つヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ダニイール・ロマーノヴィチの同意も取り付けた上で、キエフ大公となった。これにはユーリー・フセヴォローディチも合意を与えていた。別の弟スヴャトスラーフもペレヤスラーヴリ=ユージュヌィーの公となっており、フセヴォローディチ兄弟が北と南の双方で覇権を握ることとなった。

 1237年、モンゴルの来襲を受けたリャザニ公ユーリー・イーゴレヴィチから救援の要請があるが、ユーリー・フセヴォローディチはこれを拒否した。しかしモンゴルは、リャザニを蹂躙してさらに北東に進軍。ユーリー・フセヴォローディチは長男フセーヴォロド・ユーリエヴィチを防衛に派遣するが、1238年初頭にコロームナで撃破される。さらにモンゴル軍は次男ヴラディーミル・ユーリエヴィチの防衛するモスクワをも陥とし、ヴラディーミル近郊にまで迫った。
 ユーリー・フセヴォローディチはフセーヴォロドと三男ムスティスラーフをヴラディーミルに残し、ヤロスラーヴリへ軍を召集に赴く。その間にモンゴル軍はヴラディーミルを攻略、陥としてしまう。それどころか、わずか1ヶ月の間にロストーフ、ヤロスラーヴリ、ゴロデーツ、ガーリチ=メールスキー、ペレヤスラーヴリ=ザレスキー、ユーリエフ=ポーリスキー、ドミートロフ、ヴォロコラムスク、トヴェーリなどを蹂躙。北東ルーシでモンゴル軍に攻略されていない都市は極北の数ヶ所だけとなってしまった(モンゴル軍はさらに西進してトルジョークも陥落させている)。
 この間、ユーリー・フセヴォローディチは南ルーシにいる弟ふたりの援軍を待っていた。あるいはこれ以前に北東ルーシに戻っていたかもしれないが、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは間に合っている。しかし、モンゴル軍の進撃のあまりの早さにヤロスラーフ・フセヴォローディチが到着せぬうちに、ユーリー・フセヴォローディチはモンゴル軍と衝突することになった。
 3人の甥(コンスタンティーン賢公の子ら)をも引き連れて、ユーリー・フセヴォローディチはモンゴル軍(ブルンダイ率いる別働隊)とシーティ河畔で戦う。しかし呆気なく敗北し、ユーリー・フセヴォローディチも戦死した(ほかにふたりの甥も戦死している)。ユーリー・フセヴォローディチの家族で生き残ったのは、遠くヴォルィニに嫁いでいた長女ドブラーヴァだけだった(妻、息子、嫁、次女もみなモンゴル軍に殺された)。
 ただし、13世紀のハンガリーの年代記や14世紀のペルシャの歴史書にはシーティ河畔の戦いについて記されておらず、ただユーリー・フセヴォローディチがモンゴル軍に捕らえられて殺されたとしか書かれていない。このため、シーティ河畔の戦いは後世の想像の産物ではないかとする歴史家もあるようだ(ちなみに、リャザニ近郊で野戦が行われた、というのもある。実際には籠城戦があっただけ)。

 遺骸は、ベロオーゼロから帰還したロストーフ主教キリールによって戦場で発見され、ロストーフに運ばれて埋葬された。のち、ヴラディーミルのウスペンスキー大聖堂に改葬されている。

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