リューリク家人名録

ユーリー・アンドレーエヴィチ

Юрий Андреевич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1173-75)

生:?
没:?

父:ヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキーロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー
母:ウリタ (ステパーン・イヴァーノヴィチ・クチカ)

結婚:1185 (1187離婚)
  & グルジア女王タマーラ -1213

子:?

第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。

 生年は不明。しかし、両親の結婚が1148年とされているので、ユーリー・アンドレーエヴィチの生年は1150年代初頭と見ていいだろう。もっとも、何に依ったか1160年代初頭とする歴史書もある。

 1172年、ノーヴゴロド市民の要請に応える形で、父によりノーヴゴロドに派遣される。

 1173年、南ルーシの覇権を握るロスティスラーヴィチ兄弟と喧嘩した父により南ルーシに派遣される。ノーヴゴロド & ロストーフ連合軍を率い、キエフに侵攻。一旦キエフを占領したが、引き続きヴィーシュゴロドを攻撃し、ヴィーシュゴロド公ムスティスラーフ勇敢公に敗北して南ルーシから引き上げた。
 ただし、ユーリー・アンドレーエヴィチの生年がいつかは不明だが、父の死(1174)に際して「ユーリーがまだ年少であった」とされており、ユーリー・アンドレーエヴィチは単なるお飾りに過ぎなかっただろう。

 その父が死んだのが、1174年・75年。ヴラディーミル=スーズダリのボヤーリンたちは、従兄弟のムスティスラーフ無眼公 & ヤロポルクのロスティスラーヴィチ兄弟を公として招く(当時ふたりはチェルニーゴフにいた)。しかしその後、ロスティスラーヴィチ兄弟と叔父ミハルコ・ユーリエヴィチとの間に公位を巡る争いが勃発。ユーリー・アンドレーエヴィチは叔父を支援した。
 時系列がよくわからないが、おそらく父の死が契機となったのだろう。ユーリー・アンドレーエヴィチはノーヴゴロド市民により公位を追われたらしい。
 1176年・77年、ミハルコ・ユーリエヴィチが死去。もうひとりの叔父フセーヴォロド大巣公が跡を継いだ。しかし父と同様、フセーヴォロド大巣公も自分以外の者に北東ルーシをうろうろされたくなかったのか、ユーリー・アンドレーエヴィチは北東ルーシを追われたらしい。以後、その名はルーシの年代記から姿を消した。

 グルジアやアルメニアの年代記には、1180年代半ばに登場。ちなみにグルジアの年代記には «ユーリー・アンドレーエヴィチ» という名は記されていない。
 ユーリー・アンドレーエヴィチはポーロヴェツ人のもとにいた。あるいはかれらを率いて叔父から領土を奪回しようと企てていたのか。そこに、グルジアから声がかかった。

 グルジアでは、中央集権化・王権強化を推進していたギオルギ3世が1184年に死んでいた。残された娘タマル(ロシア語ではタマーラ)はすでに父の生前から共同王となっていたが、女性であり、父の政策に反発する大貴族たちを中心に多くの反対派を抑えきれていなかった。
 ユーリー・アンドレーエヴィチは、反対派貴族たちに推挙され、タマルと結婚。
 ユーリー・アンドレーエヴィチは軍を率いて遠征するなど、«男性君主» に期待される役割を一応は果たした。ただし、ユーリー・アンドレーエヴィチが単なる «女王の夫君» だったのか、それとも «グルジア王» だったのかははっきりしない。

 ユーリー・アンドレーエヴィチとタマルとの関係は最初から冷え切ったものだった。特にタマルが女王として徐々に父以来の中央集権化・王権強化の路線を歩み出すと、タマルの反対派に擁立されたユーリー・アンドレーエヴィチとは政策面でも対立することになる。
 即位後3年で宮廷内に自派勢力の優位を確立したタマルは、1187年、酒乱と性的放埓を理由にユーリー・アンドレーエヴィチを離縁した。その直後か1188年、コンスタンティノープルに追放する。もっとも大量の財産を与えたというから、タマルも寛容だったもんだ。ユーリー・アンドレーエヴィチはそれをすべて飲んでしまったという。

 その後も、ユーリー・アンドレーエヴィチは反タマル派と結んで権力の奪還を目指す。
 1191年、グルジアに侵攻。大貴族の中には同調者も現れたが、結局ユーリー・アンドレーエヴィチの軍は敗北し、ユーリー・アンドレーエヴィチ自身捕虜となるが、タマルに赦され釈放された。ルーシに追放されたが、スーズダリ諸公はかれを受け入れようとしなかったともされるが、前述のようにルーシの年代記にはそのような出来事は記されていない。
 ユーリー・アンドレーエヴィチはさらに権力奪還を目指して軍を起こし、今度はポーロヴェツ人やアゼルバイジャンと結ぼうとするが(ポーロヴェツ人のハーンの娘と結婚したとも言われる)、再び敗北を喫する。

 ユーリー・アンドレーエヴィチのその後については知られていない。

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