リューリク家人名録

スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ

Святослав Всеволодич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1200-05、07-10)
ユーリエフ=ポリスキー公 князь Юрьев-Польский (1213-28、48-52)
ペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィー)公 князь Переяславский (1228-38)
スーズダリ公 князь Суздальский (1238-46)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1246-48)

生:1196.03.27
没:1252.02.03(享年55)−ユーリエフ=ポーリスキー

父:ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー
母:マリーヤ・シュヴァルノヴナ

結婚:
  & エヴドキーヤ公女 -1228 (ムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エヴドキーヤ・ダヴィドヴナと
1ドミートリー-1269ユーリエフ=ポリスキー

第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名ガヴリイール。フセーヴォロド大巣公の五男。

 ノーヴゴロド公位は、ヴラディーミル系とスモレンスク系とが争い、これに漁夫の利としてオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)が絡んでくる状態がもう数十年にわたって続いていた。父は、妻の妹の夫であるヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチを自分の手駒としてノーヴゴロドに送り込んでいたが、何度も市民に追放の憂き目にあわされていた。
 1199年、ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチが3度目にノーヴゴロド公位を追われると、さすがに父も嫌気が差したのか、かれを復位させようとはせず、市民の要請に応えスヴャトスラーフ・フセヴォローディチを送り込んだ。4人も兄がいたにもかかわらず、なぜわずか3歳のスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが派遣されたのかはよくわからない。
 1205年から07年まで、長兄コンスタンティーン賢公ノーヴゴロド公となっている。

 1210年、スモレンスク系のムスティスラーフ幸運公がトルジョークを占領。さらにノーヴゴロド内のシンパとも連携しつつ、ノーヴゴロドに侵攻してきた。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは反対派市民に捕らえられ、ムスティスラーフ幸運公ノーヴゴロド公となる。
 しかし父がこれに反発して軍を派遣。結局ムスティスラーフ幸運公ノーヴゴロド公位が認められ、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは釈放されてヴラディーミルに帰還した。

 その後ヴラディーミルで父のもと暮らす。

 1212年、父が死去。父の遺言により、次兄ユーリーヴラディーミル大公位を相続。長兄コンスタンティーン賢公がロストーフを、別の兄ヤロスラーフがペレヤスラーヴリ=ザレスキーを、すぐ上の兄ヴラディーミルがユーリエフ=ポリスキーを継いだ。この時点ではまだ20歳にもなっていなかったスヴャトスラーフとイヴァンの末弟ふたりには分領は与えられていないようだ。
 その後、ヴラディーミル大公位を巡ってコンスタンティーン賢公ユーリー・フセヴォローディチとの内紛が勃発。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは後者を支持する。1213年には、コンスタンティーン賢公を支持したヴラディーミル・フセヴォローディチに替わってユーリエフ=ポリスキー公となる。

 1215年、ノーヴゴロド公ヤロスラーフ・フセヴォローディチが市民と対立。ヤロスラーフ・フセヴォローディチはトルジョークに依ってノーヴゴロドと対立し、ノーヴゴロド市民はムスティスラーフ幸運公を公として招いた。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはユーリー・フセヴォローディチによりトルジョークに派遣され、ヤロスラーフ・フセヴォローディチを支援する。
 トルジョークをムスティスラーフ幸運公に攻囲され、フセヴォローディチ兄弟は撤退を余儀なくされた。

 1216年、ムスティスラーフ幸運公を含むスモレンスク系一族がヴラディーミル大公領に侵攻。フセヴォローディチ兄弟はユーリー・フセヴォローディチを中心に結束してこれに抵抗するが、コンスタンティーン賢公がスモレンスク系一族と同盟。リピツの戦いでフセヴォローディチ兄弟は敗北した。敗戦処理でユーリー・フセヴォローディチヴラディーミル大公位を失ったが、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチにはそのままユーリエフ=ポリスキーの領有が認められた。

 1218年、コンスタンティーン賢公が死去。ユーリー・フセヴォローディチヴラディーミル大公に返り咲いた。

 1220年、ユーリー・フセヴォローディチにより、ヴォルガ=ブルガールに遠征。

 1222年、ノーヴゴロドの要請を受けたユーリー・フセヴォローディチによりノーヴゴロドに派遣され、リヴォニアに遠征。

 1226年、弟イヴァン・フセヴォローディチとともに、ニージュニー・ノーヴゴロド建設(1221年)に反対して蜂起したモルドヴァー人を鎮圧。

 1228年、ユーリー・フセヴォローディチにより南ルーシに派遣され、ペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィー)公となる。その後ヴラディーミルに帰還した時期、理由は不明。遅くとも1238年までにはペレヤスラーヴリを去っていた。
 なおこの1228年、妻のエヴドキーヤ・ダヴィドヴナがムーロムの修道院に入ったらしい。何か関係があるのだろうか。

 1238年、シーティ河畔の戦いでモンゴル軍と戦う。
 この戦いでユーリー・フセヴォローディチは戦死し、ヤロスラーフ・フセヴォローディチが跡を継いでヴラディーミル大公となった。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはスーズダリを分領としてもらう。

 1245年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチのお伴をしてサライへ。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは弟イヴァンとともに帰国したが、兄はひとりカラコルムに赴いた。
 1246年、カラコルムからの帰途、ヤロスラーフ・フセヴォローディチが死去。年長権に従ってスヴャトスラーフ・フセヴォローディチがヴラディーミル大公位を継ぐ。
 これに反発したヤロスラーフ・フセヴォローディチの子たちのうち、長男ノーヴゴロド公アレクサンドルと次男スーズダリ公アンドレイはサライからさらにカラコルムへと赴く。その間、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチは居残ったヤロスラーヴィチ兄弟の懐柔を試みたのか、1247年にミハイールにモスクワを、コンスタンティーンにガーリチ=メールスキーを、ヤロスラーフにトヴェーリを与えた。
 1248年、ミハイール・ホローブリトヴラディーミル大公位を奪われる。ミハイール・ホローブリトはその直後、リトアニアとの戦いで戦死。スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはリトアニア軍をズブツォーフ近郊で破り、おそらくヴラディーミル大公位を取り戻したものと思われる。

 キエフ・ルーシにおける慣習からすれば、甥たちの反発は論外で、大公位継承の正当性はスヴャトスラーフ・フセヴォローディチにあった。祖父ユーリー・ドルゴルーキーも、父フセーヴォロド大巣公も、いずれも甥たちと戦って年長権を主張している。しかしモンゴルの襲来により、状況は大きく変化していた。
 1250年、アレクサンドル & アンドレイ兄弟が帰国。大ハーン・グユクから、アレクサンドルはキエフとノーヴゴロドの、アンドレイはヴラディーミルの支配を認められていた。年長権とは無関係に、モンゴルの裁定がすべてを決した。
 スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはヴラディーミル大公位を取り戻そうと、息子ドミートリーとともにサライのバトゥのもとに赴くが、大ハーンの決定を覆すことはできなかった。

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