セミョーン・イヴァーノヴィチ・リャポロフスキー
Семен Иванович Ряполовский
公 князь
生:?
没:1499
父:イヴァン・イヴァーノヴィチ・リャポロフスキー公 (イヴァン・アンドレーエヴィチ・リャポロフスキー公)
母:?
結婚:?
子:なし
第17世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。モスクワ大公の勤務公。
1477年、ノーヴゴロド遠征に従軍。
1494年、リトアニアへ。リトアニア大公アレクサンドラスとの講和条約調印に臨む。翌1495年にはエレーナ・イヴァーノヴナ大公女につき従って、再びヴィリニュスへ。
1496年、カザン・ハーンのムハメド=エミンの援助に派遣され、シビル・ハーンのマムークと戦う。
反ソフィヤ・パレオローグ派の急先鋒。
1490年にイヴァン・イヴァーノヴィチが死んだ後、イヴァン大帝の後継者になるべきは誰かを巡ってセミョーン・イヴァーノヴィチは、ソフィヤ・パレオローグの子ヴァシーリー・イヴァーノヴィチに反対し、積極的にイヴァン・イヴァーノヴィチの遺児ドミートリーを推す。1498年にヴァシーリー派貴族によるドミートリー・イヴァーノヴィチ暗殺計画を暴露したのもセミョーン・イヴァーノヴィチだったらしい。こうしてドミートリー・イヴァーノヴィチがモスクワ大公に即位した。
ところが1499年、年代記は理由を伝えていないものの、セミョーン・イヴァーノヴィチは突然失脚。処刑される。おそらくヴァシーリー派貴族の巻き返しでイヴァン大帝の不興を買ったものだろう。