ムスティスラーフ・アンドレーエヴィチ
Мстислав Андреевич
生:?
没:1172
父:ヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキー (ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー)
母:ウリタ (ステパン・イヴァーノヴィチ・クチカ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
? | ヴァシーリー |
第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。
年代記への登場からすると、次男。とすると、両親の結婚が1148年とされているので、ムスティスラーフ・アンドレーエヴィチは1150年代初頭の生まれと考えていいだろう。
1169年、スモレンスクのロスティスラーヴィチ兄弟と同盟を結んだ父が、キエフに大遠征軍を派遣。ムスティスラーフ・アンドレーエヴィチはヴラディーミル軍を率いて南下。ロスティスラーヴィチ兄弟のスモレンスク軍、さらにはスヴャトスラーヴィチ兄弟のチェルニーゴフ軍とも合流し、総勢11人の公が従軍した大軍は、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを追ってキエフを占領した。
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチはノーヴゴロドにも息子のロマーン偉大公を派遣していたが、ムスティスラーフ・アンドレーエヴィチは引き続き父の命でノーヴゴロドに遠征。ノーヴゴロドを陥とすことはできなかったが、ノーヴゴロド公の交替は実現した。
1172年、父によりヴォルガ・ブルガール遠征に派遣される。
没年ははっきりしない。