リューリク家人名録

ミハイール・ヤロスラーヴィチ «ホローブリト»

Михаил Ярославич "Хоробрит" / "Храбрый"

モスクワ公 князь Московский (1246-48)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский(1248)

生:?
没:1248.01.15−プロトヴァ河畔

父:ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公
母:ロスティスラーヴァ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ボリース-1263モスクワ

第11世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。

 4番目に名前が挙げられているので、一般的に四男とされる。生年は不明だが、1229年とする史料を見たことがある。だとしたら四男ではなくもう少し下ではないだろうか。

 1246年、父が死去。叔父スヴャトスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル大公位を継ぐ。
 これに反発した長兄アレクサンドル・ネフスキーと次兄アンドレイはサライへ、さらにカラコルムへと赴く。その間残るヤロスラーヴィチ兄弟はスヴャトスラーフ・フセヴォローディチに分領を与えられ、ミハイール・ヤロスラーヴィチもモスクワをもらった。
 1248年、ミハイール・ヤロスラーヴィチはスヴャトスラーフ・フセヴォローディチを追ってヴラディーミル大公となる。カラコルムに赴いた兄たちはまだ帰国していなかった。

 この年、ミンダウガスの派遣したゲドヴィダスタウトヴィラスヴィキンタス率いるリトアニア人が、スモレンスク公領に侵攻。それにしてはずいぶんルーシの奥深くまで攻め込んだもので、これを迎え撃ったミハイール・ヤロスラーヴィチとは、モスクワのすぐ南西を流れるプロトヴァ河畔で激突(たぶんこの川の近くにスモレンスク公領ヴラディーミル大公領の国境があったのではないか)。
 この戦いで、ミハイール・ヤロスラーヴィチは戦死した。遺骸はプロトヴァ川の戦場に残されたが、スーズダリ主教キリールによってヴラディーミルに運ばれ、ウスペンスキー大聖堂に埋葬された。

 添え名は «フラーブルィー(勇敢な)» とされることがあるが、年代記では «ホローブリト»。これは、「元気を出す」、転じて「強がる」という意味だったらしい。

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