リューリク家人名録

イヴァン・フセヴォローディチ «カーシャ»

Иван Всеволодич "Каша"

スタロドゥーブ公 князь Стародубский (1238-47)

生:1197/98.08.28
没:?

父:ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー
母:マリア (ボヘミア王シュヴァルン?)

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ミハイール-1281スタロドゥーブ

第10世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。フセーヴォロド大巣公の六男(末男)。

 1212年に父が死去。長兄コンスタンティーン賢公は父の遺志に逆らったために年長権を剥奪され、次兄のユーリー・フセヴォローディチが後継のヴラディーミル大公となった。
 まだ幼年(14歳)だったイヴァン・フセヴォローディチは、父の遺言で10歳年長のユーリー・フセヴォローディチに託されたらしい。この時点ではイヴァン・フセヴォローディチは自前の分領をもらっていないようだ。
 やがて、コンスタンティーン賢公ユーリー・フセヴォローディチとの間で、ヴラディーミル大公位を巡る内紛が勃発。イヴァン・フセヴォローディチは、当然、ユーリー・フセヴォローディチを支持した。1213年にはユーリー・フセヴォローディチに従って戦闘に赴いている。
 1216年にもリピツの戦いに従軍し、コンスタンティーン賢公とスモレンスク系諸公との連合軍に敗北を喫した。

 1226年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとともにモルドヴァー人に対する遠征に従軍。

 1238年、シーティ河畔の戦いでユーリー・フセヴォローディチが戦死すると、ヴラディーミル大公となった兄ヤロスラーフ・フセヴォローディチからスタロドゥーブを分領としてもらった。

 1245年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチに従ってサライに伺候。イヴァン・フセヴォローディチは兄スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとともに帰国するが、ヤロスラーフ・フセヴォローディチはひとりカラコルムに赴いた。
 1246年、カラコルムからの帰途、ヤロスラーフ・フセヴォローディチが死去。
 ヴラディーミル大公位はスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが継承したが、これに不満を覚えた甥アレクサンドルアンドレイヤロスラーフ・フセヴォローディチの遺児)はカラコルムにまで赴いている。1248年にはアレクサンドル & アンドレイの弟で、ルーシに残ったミハイール・ホローブリトが大公位を奪取。1250年にはアレクサンドル & アンドレイが帰国し、大ハーンの認可状によってヴラディーミル大公位を巡る争いには一応の決着がついた。
 イヴァン・フセヴォローディチの没年は不明だが、少なくともこの時点ではすでに死んでいたものと思われる。多くの歴史書が、没年を1247年としている。没年が不明というのもヴラディーミル系一族では珍しいが、よほど注目されない存在だったのだろうか。

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