聖フョードル・ヤロスラーヴィチ
Св. Федор Ярославич
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1228-29)
生:1219/20−ペレヤスラーヴリ=ザレスキー
没:1233.06.05−ノーヴゴロド
父:ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ (ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公)
母:フェオドーシヤ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公)
結婚:なし
子:なし
第11世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。ヤロスラーフ・フセヴォローディチの長男。
フョードルは父の洗礼名。つまりフョードル・ヤロスラーヴィチは、同時にフョードル・フョードロヴィチでもある。このように、自分の名(洗礼名だろうと異教風の名だろうと)を子に与えるというのは、その名を持つ先人(主に聖人)の庇護を願うという、名の持つ呪術的な意味合いからして、これまではあり得なかった。弟にヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチというのがいる事実からしても、この頃ようやく異教時代から続いた名前の呪術的な意義が薄れてきたものと思われる。
父は1221年から23年、そして24年から28年と、断続的にノーヴゴロド公を務める。この関係で、フョードル・ヤロスラーヴィチも幼少期の多くをノーヴゴロドで過ごしたらしい。
1228年、父はノーヴゴロド市民の党派対立から事実上公位を追われ、ペレヤスラーヴリ=ザレスキーに帰還(母も)。この時、まだ10歳にも満たなかったフョードルと弟のアレクサンドルが、言わば父の代理として信頼するボヤーリンの手に委ねられてノーヴゴロドに残された。
しかしノーヴゴロドの反対派市民はオーリゴヴィチのミハイール・フセヴォローディチを公として招く。フョードルとアレクサンドルもまたノーヴゴロドから逃れる羽目に陥った。
1230年、父がノーヴゴロド公に復帰。これに伴いフョードル・ヤロスラーヴィチもノーヴゴロドへ。しかし父はわずか2週間滞在しただけで、再びフョードルとアレクサンドルをノーヴゴロドに残してペレヤスラーヴリ=ザレスキーに戻ってしまった。事実上フョードルとアレクサンドルがノーヴゴロド公になったようだものだが、公式には依然ノーヴゴロド公は父だったし、フョードルたちも父の命に従っていた(ふたりはまだ幼くもあった)。
1232年、伯父のヴラディーミル大公ユーリー・フセヴォローディチの命により、モルドヴァー人遠征に従軍。