リューリク家人名録

聖アンドレイ・ユーリエヴィチ «ボゴリューブスキー»

Св. Андрей Юрьевич "Боголюбский"

ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский (1149、55)
トゥーロフ公 князь Туровский (1150-51)
ドロゴブージュ公 князь Дорогобужский (1150-51)
ムーロム公 князь Муромский (1154)
ロストーフ=スーズダリ公 князь Ростово-Суздальский (1155-75)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский

生:1110頃
没:1174/75.06.29−ボゴリューボヴォ

父:ロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーキエフ大公ヴラディーミル・モノマーフ
母:? (ポーロヴェツ人のハーン・アエパ)

結婚:1148
  & ウリタ -1175 (ステパン・イヴァーノヴィチ・クチカ)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
ロスティスラーヴァスヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチ-1166ヴシチージュ公
1イジャスラーフ-1163
2ムスティスラーフ-1172
3ユーリーグルジア女王タマーラ
マリーヤ

第9世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名アンドレイ。

 ユーリエヴィチ兄弟については詳細はよくわからないが、アンドレイ・ユーリエヴィチはおおよそ1110年頃に生まれたものと推定されている。根拠は、その経歴からしてロスティスラーフに次ぐ次男だったと推測されるからである。両親の結婚が1108年であるから、次男であれば、1110年か1111年頃に生まれただろう、ということである(生年に関する私見についてはロスティスラーフの項を参照)。
 逆に言えば、経歴的には年長らしく思えるが、実際にはもっと年少だった、という可能性もないではない。たとえば若死にしたイヴァンなどの場合、アンドレイよりも年長であったかもしれない。年代記での初登場も、アンドレイ、イヴァングレーブボリースがほぼ同時である(特にグレーブとの長幼の順についてはグレーブの項を参照)。
 なお、さらにヴァシリコムスティスラーフ、ヤロスラーフ、スヴャトスラーフ、ミハルコフセーヴォロドという弟がいる。これら弟たちについては、アンドレイ・ユーリエヴィチの同母弟だったのか異母弟だったのか、という問題も生じるが、それについては後述。

 1146年頃から、父はキエフ大公位を狙って激しい争いを繰り広げるが、アンドレイ・ユーリエヴィチは1146年、兄ロスティスラーフ・ユーリエヴィチとともにリャザニを攻略し、ムーロム公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ(父の敵イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの味方)をリャザニから追う。

 1149年、父がキエフ大公となると、アンドレイ・ユーリエヴィチはヴィーシュゴロド(キエフ近郊)を分領としてもらう。アンドレイ・ユーリエヴィチは父とイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとの和解を主張し実現するが、平和は1年もたなかった。
 1150年、父はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに大公位を追われるが、その年のうちに奪回。アンドレイ・ユーリエヴィチはトゥーロフ、ピンスク、ペレソープニツァ、ドロゴブージュを分領としてもらう。アンドレイ・ユーリエヴィチは再び和平を試みるが、失敗。父は再びイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチに大公位を奪われた。
 父はその後もしばらく南ルーシでキエフ奪回を試みるが、結局1151年に大敗を喫して北東ルーシに帰還する。アンドレイ・ユーリエヴィチもこの時同時に北東ルーシに戻った。

 1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。父はムーロムに侵攻し、ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチからムーロムを奪ってアンドレイ・ユーリエヴィチに与える。しかしポーロヴェツ人の支援を得たロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチに、その年のうちにムーロムは奪還された。
 1155年、父がキエフ大公位を確保する。アンドレイ・ユーリエヴィチは父により再度ヴィーシュゴロド公とされるが、しかし父の意に反して、スーズダリへ。父はアンドレイをキエフ大公に、ロストーフ=スーズダリはミハルコフセーヴォロドに与えることを考えていたとも言われるが、アンドレイ・ユーリエヴィチとすれば、無益で際限のない内紛を繰り返す羽目になる南方の領土よりも、北東ルーシの方が支配し甲斐があると思ったのかもしれない。

 1157年、父が死去。アンドレイ・ユーリエヴィチは正式にロストーフ=スーズダリ公領を継承し、同時に主都を、貴族勢力の強いスーズダリからヴラディーミルに移す(古都ロストーフやスーズダリには、古くからのボヤーリンが土着していた)。かれ自身はヴラディーミル近郊のボゴリューボヴォに居住(ゆえに «ボゴリューブスキー» と呼ばれた)。
 以後、キエフ大公位に興味を持たないアンドレイ・ユーリエヴィチは、ロストーフ=スーズダリを事実上の独立国家として、北東ルーシの核に成長させる。

なお、これ以降北東ルーシはロストーフ=スーズダリではなくヴラディーミル=スーズダリと呼ばれるようになる。

 父が死んだ時点で、生き残った弟はペレヤスラーヴリ公グレーブボリースポローシエ公ヴァシリコノーヴゴロド公ムスティスラーフミハルコ、ヤロスラーフ、スヴャトスラーフ、フセーヴォロドと8人もいた。領土を持っている3人はともかく、自前の分領を持たない5人には、通常であれば父の遺領から分領を分け与えるところだが、国内において独裁者としての地位を確立せんとするアンドレイ・ボゴリューブスキーは、弟たちに一切の分領を与えなかった。

 ノーヴゴロドでは、父の死で言わば «反ユーリー派» が勢力を拡大。ムスティスラーフ・ユーリエヴィチが逃亡し、これに乗じたスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが子のスヴャトスラーフノーヴゴロド公とした。
 ノーヴゴロドに対する覇権を奪回せんものと、アンドレイ・ボゴリューブスキーは手始めに1159年、モスクワに西方にあるノーヴゴロド領ヴォロク(ヴォロコラムスク)を奪う。さらに1160年になって、ノーヴゴロドをしてスヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチを追放させ、自身の甥ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチを公とさせた。しかし翌61年、ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと合意し、スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチノーヴゴロド公位を認めた。

 こうしてムスティスラーフ・ユーリエヴィチも自前の領土を失った。時あたかもヴァシリコ・ユーリエヴィチもまた、南ルーシから北東ルーシに帰還してきていた。この間にボリース・ユーリエヴィチが死んでいたとはいえ、アンドレイ・ユーリエヴィチは余計な弟たちを6人も抱えていたわけである。北東ルーシ全体を統一的に支配しようとするアンドレイ・ユーリエヴィチにとっては、分領を要求してくる可能性のある弟たちの存在は余計どころか厄介な存在であったと言える。
 1161年か62年、アンドレイ・ユーリエヴィチは継母とその子(異母弟)たちを北東ルーシから追放した。
 この時アンドレイ・ユーリエヴィチが追放したのが具体的に誰か、よくわからない。一般的に「異母弟たちを追放した」とされるが、同母弟と思われる者も追放されたと記述されていることがある。異母弟とは思えないヴァシリコムスティスラーフは、1160年頃以降の消息が不明なので、あるいはただ単に死んだだけかもしれない。フセーヴォロドが追放されたのは確かなようだが、ミハルコはこの後グレーブのペレヤスラーヴリにいたとも言われる。あるいは追放されたわけではなく、グレーブのもとに派遣されただけかもしれない。ヤロスラーフとスヴャトスラーフについては、そもそも何もわかっていないが、少なくともヤロスラーフは追放されていない。
 そう考えると、この «追放劇» の標的は、弟たちでも、ましてや異母弟でもなく、末弟フセーヴォロドだけだったのかもしれない。ミハルコも北東ルーシを去っているのは事実なので、フセーヴォロトだけということはないだろうが。
 いずれにせよ、アンドレイ・ユーリエヴィチが一族を北東ルーシから追放したのは事実で、ふたりの甥(兄ロスティスラーフの子)もまたこの時同時に追放している。
 古来ボヤーリンは公の臣下ではあるが、自前の領地を持つ地主貴族として、同時に公の助言者、片腕でもあった。しかし独裁者たらんとするアンドレイ・ユーリエヴィチはかれらをもあるいは追放し、あるいは投獄する。そもそもスーズダリからヴラディーミルに遷都したのも、ボヤーリンの勢力の強いスーズダリを嫌ってのことであった。
 やはり単純に考えて、アンドレイ・ユーリエヴィチは自分以外の権力者をつくるつもりもなければ、権力者たり得る者が自分の領土内にいることすら許さなかったということだろう。
 追放された異母弟たちは、継母の伝手を頼ってコンスタンティノープルに亡命した。

 ヴラディーミルに府主教座を設けようと、1162年にコンスタンティノープル総主教の許可を求めるが、得られず。これは別の言い方をすると、ルーシの教会組織を、キエフ府主教の管轄する南ルーシと、ヴラディーミル «府主教» の管轄する北ルーシとの分割しようとするものであった。アンドレイ・ユーリエヴィチが狙っていたものが、キエフ・ルーシ全土の支配権ではなく、北東ルーシの独立であった、ということを如実に物語っている。
 この試みは失敗したが、アンドレイ・ユーリエヴィチは教会に対しても大きな影響力を行使し、スーズダリ主教レオーンティイを追放したりもしている。

 1164年、アンドレイ・ユーリエヴィチは、息子イジャスラーフ、弟ヤロスラーフ・ユーリエヴィチ、ムーロム公ユーリー・ヴラディーミロヴィチとともにヴォルガ・ブルガールに親征。

 1167年、キエフ大公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチキエフ大公となる。
 この年、アンドレイ・ユーリエヴィチが押し付けたノーヴゴロド公スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチが、ノーヴゴロド市民に追放される(あるいは死んだとも)。ノーヴゴロド市民に接近したキエフ大公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチが、自分の子ロマーンノーヴゴロド公に据えた。
 こうしてアンドレイ・ユーリエヴィチはムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと敵対することになったが、ロスティスラーヴィチ兄弟(ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの遺児たち)もまたムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと敵対しており、アンドレイ・ユーリエヴィチとロスティスラーヴィチ兄弟の関係は急接近した。
 1169年、アンドレイ・ユーリエヴィチは、キエフに息子ムスティスラーフを派遣。この派遣軍には、ロスティスラーヴィチ兄弟とスヴャトスラーヴィチ兄弟(チェルニーゴフ系)を筆頭に、さらに10人の公が従軍したとされる。
 ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを追ってキエフを陥落させたが、アンドレイ・ユーリエヴィチは自らキエフ大公になろうとはせず、代わりに弟グレーブ・ユーリエヴィチに大公位を与えた。
 もともとアンドレイ・ユーリエヴィチがキエフを重要視していなかったためでもあろうが、これにより、ルーシの中心地としてのキエフの地位は決定的に低落した。しかしそれ以上に重要なのは、もはやキエフ大公に名目的にすら従属しない公が誕生したということであろう。それまでは、いかに実権を失ったとはいえキエフ大公はルーシ諸公の宗主であった。ところがもはやその権威すらも失われ、むしろ逆にキエフ大公ヴラディーミル公に従属することとなった。これ以降、これに倣って、自らキエフ大公になろうと不毛な争いを繰り広げるのではなく、キエフ大公を自分に従属させようとする諸公、さらにはキエフ大公から完全に独立していく諸公が現れることになる。かろうじて心理的に保たれていたキエフ・ルーシの統一が、この後急速に崩壊していくことになる。

 アンドレイ・ユーリエヴィチはさらにノーヴゴロドにもムスティスラーフ・アンドレーエヴィチを派遣。ノーヴゴロド占領には失敗したとはいえ、ノーヴゴロドはロマーン・ムスティスラーヴィチに替え、アンドレイ・ユーリエヴィチの推すリューリク・ロスティスラーヴィチを公とした。

 1171・72年、グレーブ・ユーリエヴィチが死去。アンドレイ・ユーリエヴィチはスモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチキエフ大公とする。
 しかしその直後、ロスティスラーヴィチ兄弟とアンドレイ・ユーリエヴィチとの関係は悪化する。年代記の伝えるところによると、グレーブ・ユーリエヴィチが暗殺されたとの噂をアンドレイ・ユーリエヴィチが聞きつけ、しかもその下手人がロスティスラーヴィチ兄弟の関係者だと思い込んだことが原因だったらしい(この噂の真相は不明)。
 1173年、アンドレイ・ユーリエヴィチは息子ユーリーを派遣する。その率いる軍はヴラディーミル=スーズダリだけではなく、ノーヴゴロド、ムーロム、リャザニも含め、総勢5万を数えたという。さらに20人以上の諸公も従軍したとされている。しかしこの大軍もヴィーシュゴロドを攻め落とすことができず、キエフにルーツク公ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチが援軍を率いて到着したとの知らせに瓦解した。
 南ロシアに対するアンドレイ・ユーリエヴィチの影響力は失われた。

 1172年、アンドレイ・ユーリエヴィチはヴォルガ・ブルガールに息子ムスティスラーフを派遣する。
 1173年、息子ユーリーをノーヴゴロドに送り込む。

 個人的な恨みから、妻の親族に殺された。しかし、アンドレイ・ユーリエヴィチの公権力強化政策や勢力拡大政策により、周辺諸公や公領内の貴族とアンドレイ・ユーリエヴィチとの関係は極度に悪化していた。妻の親族に殺されずとも、いずれは似たような運命を辿ったであろう。
 なお没年は、1174年と1175年のいずれかはっきりしない。
 ヴラディーミルのウスペンスキー大聖堂に葬られる。

 添え名の «ボゴリューブスキー» は、上にも書いたが、かれが居住したヴラディーミル近郊の小村の名前に由来し、「ボゴリューボヴォの」という意味。ちなみにボゴリューボヴォとは「神の愛」という意味。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system