リューリク家人名録

ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ

Ярослав Ярославич

トヴェーリ公 князь Тверской(1247-52、?-71)
プスコーフ公 князь Псковский (1254)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1255、66-71)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1264-71)

生:?
没:1271.09.16

父:ヴラディーミル大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公
母:ロスティスラーヴァ (トローペツ公ムスティスラーフ幸運公

結婚①:
  & ナターリヤ? -1252

結婚②:1266
  & クセーニヤ公女 -1313 (トルーサ公ユーリー・ミハイロヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
クセーニヤ・ユーリエヴナと
1スヴャトスラーフ-1282トヴェーリ
2クセーニヤ?-1286ユーリー・リヴォーヴィチガリツィア王
3ソフィヤ-1305修道女
4ミハイール-1271
5ミハイール1272-1319トヴェーリアンナ-1368ロストーフ公ドミートリー・ボリーソヴィチ

第11世代。モノマーシチ(ヴラディーミル系)。洗礼名アファナーシー。
 トヴェーリ系モノマーシチの始祖。

 文献上父子関係(あるいは父称)が明らかな例に限れば、父と同じ名を持つのはヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチがムスティスラーフ幸運公に次いでふたり目(それ以外はすべて父称が明らかではなかったり、父子関係に問題があったりする)。名前の持つ呪術的な意味合いが薄れてきたため、これ以降、特に14世紀に入ってからは、父子が同じ名を共有するのも珍しくなくなる。

 生年はよくわからないが、1230年という説がある。

 1246年、カラコルムからの帰途、父が死去。叔父スヴャトスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル大公位を継承する。長兄アレクサンドル・ネフスキーと次兄アンドレイ・ヤロスラーヴィチはサライへ。そこからさらにカラコルムへ。
 その間、1247年にヤロスラーヴィチ兄弟はスヴャトスラーフ・フセヴォローディチから分領を与えられる。ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチもトヴェーリをもらった。
 この後、1248年にはミハイール・ホローブリトスヴャトスラーフ・フセヴォローディチからヴラディーミル大公位を奪い、1250年には帰国したアレクサンドル・ネフスキーがキエフとノーヴゴロドの、アンドレイ・ヤロスラーヴィチがヴラディーミルの支配権を大ハーンから与えられてキエフ・ルーシを名目上二分した。しかし、あるいはまだ若かったからか、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチはこの間、特に目立った動きはしていない。

 キエフはモンゴルの襲撃で荒廃し、もはやキエフ大公位はかつてのような権威を持たなかった。もともとヴラディーミル系一族内ではキエフ大公位よりもヴラディーミル大公位の方に重きが置かれていたこともあり、大ハーンの思惑はどうあれ、結果としてその裁定は兄のアレクサンドル・ネフスキーを排して弟のアンドレイ・ヤロスラーヴィチに父の後継者の地位を与えたことになった。これにアレクサンドル・ネフスキーが不満を覚えないはずはない。両者間には緊張した関係が続いたようだが、この時ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチはアンドレイ・ヤロスラーヴィチを支持したと伝えられる。

 1252年、アレクサンドル・ネフスキーがサライに赴いた隙を衝いて、ノーヴゴロドやアンドレイ・ヤロスラーヴィチと同盟してペレヤスラーヴリ=ザレスキーに侵攻するが、モンゴル軍に破れる。妃は殺され、子供たちを捕虜とされた。
 1254年、ラードガに逃亡。プスコーフとする文献もあるが、いずれにせよノーヴゴロド領内であることに違いはない。ノーヴゴロドそのものはアレクサンドル・ネフスキーに屈服し、アンドレイ・ヤロスラーヴィチの受け入れすら拒んだが、従属する都市の中には本国の意向に逆らうものもあったということだろう。むしろ、表面上アレクサンドル・ネフスキーに屈したノーヴゴロド市民が、裏で手をまわしていたのかもしれない。

 1255年、アレクサンドル・ネフスキーの子ヴァシーリーを追放したノーヴゴロドは、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチを公として迎える。しかしアレクサンドル・ネフスキーの軍事的威圧の前に、ノーヴゴロドは屈服。ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチはいずこかへ逃亡した。

 いつトヴェーリに帰還したのかも不明。1256年にアレクサンドル・ネフスキーアンドレイ・ヤロスラーヴィチが和解しているので、あるいはその時か。いずれにせよ1258年、兄たちやロストーフ公ボリース・ヴァシリコヴィチとともにサライに伺候。

 1262年、リヴォニア騎士団と戦うノーヴゴロドの支援に、アレクサンドル・ネフスキーにより派遣される。その子ドミートリーとともにユーリエフ(ドイツ語ドールパト/デルプト、現タルトゥ、エストニア)を攻囲。しかしこれは陥とせなかった。

 1263年、アレクサンドル・ネフスキーが死去。年長権からすれば兄アンドレイ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル大公位を継ぐべきであったが、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチがこれに異議を唱える。結局、ベルケ・ハーンの認可状はヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチに与えられ、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチがヴラディーミル大公となった。

 1266年、ノーヴゴロド公ドミートリー・アレクサンドロヴィチがノーヴゴロド市民に追われる。民会はヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチを公として招く。
 これと関連して、ヤロスラーフのふたり目の妃(オクシーニヤと呼ばれることもあるが、これはクセーニヤの崩れた形)は、ノーヴゴロド貴族の娘だと言われることが多い。しかし文献によっては、トルーサ公の娘としている。

 1267年、リトアニアからプスコーフに亡命してきたリトアニア人ダウマンタスの受け入れを巡り、ヤロスラーフ(受入派)はノーヴゴロド民会(反対派)と対立。ちなみにこれには、ノーヴゴロドからの分離独立を目指すプスコーフと、それを阻止したいノーヴゴロドとの思惑もからんでいた。プスコーフ民会は、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチの長男スヴャトスラーフに替えて、ダウマンタスプスコーフ公として推戴する。
 1267年、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチはノーヴゴロドを去り、甥ユーリー・アンドレーエヴィチを公として残す。
 1268年、ノーヴゴロド民会の混乱に乗じて、ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチは再びノーヴゴロドに赴き、自身の覇権を再確立する。

 1270年、リヴォニア騎士団との間に講和を結ぶ。しかし再びノーヴゴロドとの関係が悪化。ペレヤスラーヴリ公ドミートリー・アレクサンドロヴィチスモレンスク公グレーブ・ロスティスラーヴィチ、さらにはモンゴルの支援も得たヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチは、弟コストロマー公ヴァシーリー・ミジンヌィーと同盟したノーヴゴロドと対峙するが、どちらも決め手がないまま、府主教キリールの仲裁で講和を結ぶ。

 1271年、ヴァシーリー・ミジンヌィードミートリー・アレクサンドロヴィチとともにサライに赴く。
 帰途、死去。死の直前修道士アファナーシーとなった。

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