リューリク家人名録

フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチ

Всеволод Александрович

ホルム公 князь Холмский (1339-64)
トヴェーリ大公 великий князь Тверской (1346-49)

生:1328
没:1364/65

父:トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチトヴェーリ大公ミハイール・ヤロスラーヴィチ
母:アナスタシーヤ (ガリツィア王ユーリー・リヴォーヴィチ

結婚:
  & ソフィヤ (リャザニ大公イヴァン・イヴァーノヴィチ・コロトポル

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ユーリー-1408ホルム
2イヴァン-1402プスコーフアナスタシーヤモスクワ大公ドミートリー・ドンスコーイ

第14世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。

 アレクサンドロヴィチ兄弟は一般的に6人の名が挙げられるが、詳細はよくわからない。通常、長兄はレフで、1320年代初頭に幼少で死んだとされる。父存命中の活動から、2番目はフョードルとされる。さらにフセーヴォロド、ヴラディーミル、アンドレイ、ミハイールといたが、フセーヴォロドとミハイールの順番はこの通りだとして、ヴラディーミルとアンドレイの位置づけが不明。

 1339年、父が兄フョードル共々サライで処刑される。トヴェーリ公位は叔父コンスタンティーン・ミハイロヴィチが継承。フセーヴォロドとミハイールの兄弟は、ホルムとミクーリンをそれぞれ分領として相続した。弟(?)のアンドレイはズブツォーフ公とされることがあるが、ヴラディーミルについては一切不明。

 具体的なことはよくわからないが、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは叔父コンスタンティーン・ミハイロヴィチに圧迫されたと言われる。ついに1345年、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはモスクワ公セミョーン傲慢公のもとに逃亡。
 しかしコンスタンティーン・ミハイロヴィチモスクワ公に従順で、セミョーン傲慢公がフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチを支援するはずもない。おそらく埒が明かなかったのだろう。同年、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはサライに赴く。そこにはコンスタンティーン・ミハイロヴィチも来ており、ハーンの前で両者が対決した。
 同地でコンスタンティーン・ミハイロヴィチは死去。フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはジャーニー・ベクよりトヴェーリ公位継承を認めてもらった。

 フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチにはもうひとりの叔父カーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチがいた。
 ヴァシーリー・ミハイロヴィチは兄の死を知って自らもサライに乗り込むため、貢物をトヴェーリ公領全土から徴収した。当然その中にはフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの分領ホルムも含まれていた。
 これを知ったフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは、ジャーニー・ベクから借り受けたタタール軍を率いて、サライに向かう途中のヴァシーリー・ミハイロヴィチを襲撃。これを打ち破った。
 こうしてヴァシーリー・ミハイロヴィチのサライ行きを阻止したフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは、トヴェーリに帰還して無事トヴェーリ公位を継承した。

 ヴァシーリー・ミハイロヴィチトヴェーリ公位獲得を諦めなかった。従来のルーシの慣習によれば公位を継ぐべき年長権がヴァシーリー・ミハイロヴィチにあったのだから当然だろう。
 キプチャク・ハーンの後ろ盾を得て公位を継いだフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは、叔父に対抗する意味合いもあって、1347年に妹マリーヤをセミョーン傲慢公の、また1350年には別の妹ユリヤをリトアニア大公アルギルダスの妃にし、活発な外交を展開して有利な情勢をつくりあげていった。

 1349年、トヴェーリ主教フョードルの仲裁でヴァシーリー・ミハイロヴィチと和解し、トヴェーリ公位を譲渡した(フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはホルムにお引っ越し)。こうして和解が、しかもフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの譲歩でヴァシーリー・ミハイロヴィチの望む形での和解が成立したにもかかわらず、ヴァシーリー・ミハイロヴィチはやがて兄コンスタンティーン・ミハイロヴィチのようにフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチを圧迫するようになる。
 1357年、ヴラディーミルでの諸公の集まりに赴く。この場でフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは府主教アレクシーの判断を仰ぐが、アレクシーはヴァシーリー側に立つ。
 フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはさらにサライに向かうが、ヴァシーリー・ミハイロヴィチを支持するモスクワ公イヴァン赤公に阻まれた。他方で無事ベルディ・ベクと会見したヴァシーリー・ミハイロヴィチは、トヴェーリ公位を確認してもらった。この年父ジャーニー・ベクが死んでハーンとなったばかりのベルディ・ベクとしても、一族間に内紛も抱えており、ルーシについては現状維持を優先したということなのだろう。
 埒が明かないと見たフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは、義弟アルギルダスのもとへ(もっとも年齢自体はアルギルダスの方が上)。

 フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの活発な外交攻勢に(たとえ成果を生まないものであっても)危機感を覚えたヴァシーリー・ミハイロヴィチは、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチが1360年にホルムに帰還すると、トヴェーリ公領の3分の1を与えた。

 これ以降は、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの活動は伝えられていない。分領でおとなしくしていたのか。

 かつて1352年から53年にかけて北東ルーシを襲った疫病(黒死病)が、1364年頃から再び流行。フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチも、母、弟アンドレイ、ヴラディーミルともども罹患し、死去。アレクサンドロヴィチ兄弟では末弟(?)ミハイールだけが生き残った。

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