ヴァシーリー・ミハイロヴィチ
Василий Михайлович
カーシン公 князь Кашинский (1319-48)
トヴェーリ大公 великий князь Тверской (1349-68)
生:1304頃
没:1368
父:トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチ (トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:アンナ (ロストーフ公ドミートリー・ボリーソヴィチ)
結婚:1329
& エレーナ公女 (イヴァン〔ブリャンスク公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ?〕)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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エレーナ・イヴァーノヴナと | ||||||
1 | ミハイール | 1331-73 | カーシン | ヴァシリーサ | モスクワ公セミョーン傲慢公 | |
2 | ヴァシーリー | 1336-62 | カーシン |
第13世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
(おそらく)ミハイール・ヤロスラーヴィチの末男。
1319年、父がサライでウズベク・ハーンに殺される。
1326年、長兄ドミートリー雷眼公がまたしてもサライでウズベク・ハーンに殺される。次兄アレクサンドル・ミハイロヴィチがトヴェーリ公位を継承。
1327年、トヴェーリで反タタール暴動が勃発。タタールの使節(ウズベク・ハーンの従兄弟チョル・ハーンとその一行)が殺害された。ウズベク・ハーンは懲罰軍を派遣する。アレクサンドル・ミハイロヴィチはプスコーフに、ヴァシーリー・ミハイロヴィチは三兄コンスタンティーン・ミハイロヴィチや母とともにラードガに逃亡した。
1328年、コンスタンティーン・ミハイロヴィチとヴァシーリー・ミハイロヴィチは赦され、トヴェーリに帰還。コンスタンティーン・ミハイロヴィチがトヴェーリ公位を継いだ。
1338年、アレクサンドル・ミハイロヴィチが復位するが、1339年、またしてもサライにてウズベク・ハーンに殺された。コンスタンティーン・ミハイロヴィチがトヴェーリ公に返り咲いた。
1345/46年、コンスタンティーン・ミハイロヴィチが死去。
ここまでの40年間、ヴァシーリー・ミハイロヴィチはほとんど年代記に姿を現していない。しかしコンスタンティーン・ミハイロヴィチの死で、ヴァシーリー・ミハイロヴィチに初めて脚光が当たった。言うまでもなく、年長権に従いトヴェーリ公位を継承することになったからである。
ところが、当時コンスタンティーン・ミハイロヴィチは甥のホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチと対立しており、ハーンの裁定を求めてふたりともにサライに赴いていた。このため、ジャーニー・ベクはトヴェーリ公位継承の認可状をフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチに与えた。
その頃トヴェーリでも、ヴァシーリー・ミハイロヴィチもサライに赴くため、ハーンへの貢納品を領内から徴収する。ところがホルムからも徴収したことから、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはタタール軍を率いて帰還。ヴァシーリー・ミハイロヴィチはサライへの伺候をあきらめてカーシンへの帰還を余儀なくされた。
とはいえ、ヴァシーリー・ミハイロヴィチはトヴェーリ公位をあきらめたわけではなかった。従来のルーシの慣習からすれば公位を継ぐべき年長権がヴァシーリー・ミハイロヴィチにあったのだから当然だろう。その後も叔父と甥の対立は続く。
1348/49年になって、トヴェーリ主教フョードルの仲裁により、ヴァシーリー・ミハイロヴィチとフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチは講和を結び、ヴァシーリー・ミハイロヴィチがトヴェーリ公となった。
とはいえ、ヴァシーリー・ミハイロヴィチとフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチとの関係は再び悪化。
1357年には府主教アレクシーの仲裁でヴラディーミルにて会談が持たれたが、溝は埋まらず。さらにふたりは新ハーンのベルディ・ベクの裁定を求めるためサライに赴くが、ヴァシーリー・ミハイロヴィチを支持するモスクワ公イヴァン2世赤公がフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの通行を妨げた。このためヴァシーリー・ミハイロヴィチが先手を取り、ベルディ・ベクからトヴェーリ公位を確認された。
これまでであれば話はここで終わったかもしれないが、この頃、新しい勢力が西方に興っていた。フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはリトアニアに逃亡。リトアニア大公アルギルダスの支援を得てヴァシーリー・ミハイロヴィチと交渉した。モスクワとタタールの支持を得たヴァシーリー・ミハイロヴィチと同じ立場にフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチを立たせるほど、リトアニアの勢力が拡大してきていたということだろう。
1360年、リトアニア大公アルギルダスの仲介で両者は和解し、ヴァシーリー・ミハイロヴィチは分領の3分の1をフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチに与えた。
1359年にはヴラディーミル大公でもあったモスクワ公イヴァン赤公が死んでいる。遺児ドミートリー・ドンスコーイはまだ幼年であり、結局スーズダリ公ドミートリー・コンスタンティーノヴィチがヴラディーミル大公位を継承した。
ヴラディーミル大公位を巡っては、父も長兄ドミートリー雷眼公も次兄アレクサンドルも、代々激しくモスクワ公と争ってきていたが、甥との内紛を抱えてモスクワ公の支援が不可欠であったヴァシーリー・ミハイロヴィチは、大公位を狙うどころではなかったのだろう。すぐ上の兄コンスタンティーンもそうだったが、トヴェーリ公が2代続いて大公位を争うどころかモスクワ公に従属していたことが、やがてモスクワが北東ルーシに覇権を確立する上で大きな意味を持ったと言っていいだろう。
1360年代に入ると、ヴァシーリー・ミハイロヴィチとフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチの争いに、新たにミクーリン公ミハイール・アレクサンドロヴィチが加わり、トヴェーリ一族の内紛は混迷の度合いを深めた。
1364年頃から北東ルーシでは疫病(黒死病)が大流行し始めた。トヴェーリでもドロゴブージュ公セミョーン・コンスタンティーノヴィチが被害に遭い、遺言により、遺領はミハイール・アレクサンドロヴィチは譲られた。これには実弟エレメイ・コンスタンティーノヴィチが怒ったのみならず、ヴァシーリー・ミハイロヴィチも危惧を覚え、軍事衝突。
さらに続いてフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチが疫病に倒れる。こうしてヴァシーリー・ミハイロヴィチとミハイール・アレクサンドロヴィチとが «二強» として対峙することとなった。
1367年、ミハイール・アレクサンドロヴィチがリトアニアに赴いた隙に、ヴァシーリー・ミハイロヴィチはその分領に侵攻。しかしミハイール・アレクサンドロヴィチはリトアニア軍を引き連れて帰還し、ヴァシーリー・ミハイロヴィチは敗北。妻やボヤーリンを捕虜とされた。
ミハイール・アレクサンドロヴィチはカーシンにも進軍したが、その途上でヴァシーリー・ミハイロヴィチが講和。トヴェーリ公位こそ保持したが、もはやその覇権は失われ、名のみのトヴェーリ公となった。