リューリク家人名録

ミハイール・ボリーソヴィチ

Михаил Борисович

トヴェーリ大公 великий князь Тверской (1461-85)

生:1453
没:1505

父:トヴェーリ大公ボリース・アレクサンドロヴィチトヴェーリ大公アレクサンドル・イヴァーノヴィチ
母:アナスタシーヤ (アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・グラザートィー=シュイスキー公

結婚①:1471
  & ソフィヤ公女 -1483 (スルーツク公セミョーン・オレリコヴィチ

結婚②:
  & ? (ポーランド王カジミェシュ4世の孫娘)

子:なし

第18世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。

 すでにトヴェーリ大公モスクワ大公に屈して久しく、ミハイール・ボリーソヴィチも基本的にイヴァン3世に事実上臣従していた。しかしイヴァン3世は同時にミハイール・ボリーソヴィチの義兄(姉の夫)であり、両者の関係は比較的良好だったようだ(姉は1467年の疫病で死去する)。
 1471年、77年と、そのノーヴゴロド遠征に従軍。1480年のウグラ河畔での «対峙» にも加わっている。

 モスクワへの従属から脱却しようと画策を始めたのがいつ頃かははっきりしないが、1483年に妃を亡くしたことで、リトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世との政略結婚を画策。同時にカジミエラスと協定を結んでいる。しかしこれはイヴァン3世の介入で破棄することを余儀なくされた。
 諦めないミハイール・ボリーソヴィチは、1484年にもカジミエラスと結んだ(この時にその孫娘と結婚したとも言われる)。
 これを知ったイヴァン3世がトヴェーリに侵攻。ミハイール・ボリーソヴィチは屈服し、リトアニアともタタールとも、モスクワの意向に反するような協定を結ばず、モスクワ大公の事実上の «勤務公» となることを誓わされた。
 トヴェーリ大公領内にはモスクワのボヤーリンや商人たちが入り込み、トヴェーリ側を圧迫。トヴェーリのボヤーリンたちもイヴァン3世に仕えるようになっていった。親族の分領公ミクーリン公アンドレイ・ボリーソヴィチも、ドロゴブージュ公オーシプ・アンドレーエヴィチも、分領を差し出してイヴァン3世の勤務公となった(それぞれドミートロフとヤロスラーヴリをもらっている)。
 追い詰められたミハイール・ボリーソヴィチは、1485年、改めてカジミエラスに接近。しかしこれがイヴァン3世に漏れ、ミハイール・ボリーソヴィチは釈明のためにトヴェーリ主教カッシアーンやホルム公ミハイール・ドミートリエヴィチ等をモスクワに派遣した。しかし、あるいはそもそもトヴェーリ併合を決めていたのか、イヴァン3世は釈明を受け付けず、トヴェーリを攻囲。降伏か逃亡かを迫られたミハイール・ボリーソヴィチはリトアニアに逃亡。カッシアーンやミハイール・ドミートリエヴィチが開城し、トヴェーリはモスクワに占領された。
 トヴェーリではボヤーリンも市民もイヴァン3世に臣従し、その長男でミハイール・ボリーソヴィチの甥イヴァン・イヴァーノヴィチトヴェーリ公として認めた。

 クラクフに逃亡したミハイール・ボリーソヴィチは、カジミエラスに対モスクワ戦争を要請したが、拒絶されたらしい。代わりに所領をもらった。
 ミハイール・ボリーソヴィチのその後については、ほとんど知られていない。終生リトアニア=ポーランドに住んだらしい。

 なお、カジミエラスの孫娘とされているふたり目の妻について、カジミエラスの成人した孫娘は18人。内孫はいずれも1500年をすぎてから生まれており、ミハイール・ボリーソヴィチと結婚したとしたら外孫しか考えられない。しかし内孫であれ外孫であれ、いずれもその嫁ぎ先か、あるいは未婚であったことがはっきりしており、ミハイール・ボリーソヴィチの妻になったような女性は存在していない。
 だいたい、カジミエラスの娘婿たちはいずれも著名な領邦君主であり、それを無視して「カジミエラスの孫娘」としか記されていない点がおかしい。あるいは、カジミエラスの私生児の子供だったのか。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system