リューリク家人名録

聖ミハイール・アレクサンドロヴィチ

Св. Михаил Александрович

ミクーリン公 князь Микулинский (1339-99)
トヴェーリ大公 великий князь Тверской (1368-99)

生:1333−プスコーフ
没:1399.08.26−トヴェーリ

父:トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチトヴェーリ大公ミハイール・ヤロスラーヴィチ
母:アナスタシーヤ (ガリツィア王ユーリー・リヴォーヴィチ

結婚:
  & エヴドキーヤ公女 -1404 (スーズダリ公アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ or コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エヴドキーヤと
1アレクサンドル-1357
2イヴァン1357-1426トヴェーリマリーヤ-1405リトアニア大公ケーストゥティス
エヴドキーヤドロゴブージュ公ドミートリー・エレメーエヴィチ
3アレクサンドル-1389カーシン
4ボリース1362-95カーシンスモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチ
5ヴァシーリー1364-1426カーシンアナスタシーヤキエフ公ヴラディミラス・アルギルダイティス
アナスタシーヤセーヴェルスキー公カリブタス・アルギルダイティス
6フョードル-1406ミクーリンアンナフョードル・コーシュカ

第14世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。

 1339年、父がサライで長兄フョードル共々殺される。
 トヴェーリ公位は叔父コンスタンティーン・ミハイロヴィチが継ぐが、1346年には死に、もうひとりの叔父ヴァシーリー・ミハイロヴィチトヴェーリ大公となった。

 ミハイール・アレクサンドロヴィチの兄弟についてはよくわからない。サライで父とともに殺されたフョードルが長男であったのはまず間違いなかろうが(実際にはさらに年長にレフという長男がいたようだが、幼少時に死んでいる)、それ以外にヴラディーミル、アンドレイ、フセーヴォロド、そしてミハイールの4人がいたらしい。中でもヴラディーミルとアンドレイのふたりは、その名前と死亡年(いずれも1364/65年)しかわかっていない。あるいは最年少の兄弟だったのか。
 歴史において活躍した順番からすると、フセーヴォロドが兄、ミハイールが弟であったものと想像される。おそらく父の死に際して、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチはホルムを、ミハイール・アレクサンドロヴィチはミクーリンを分領として相続したものと思われる。アンドレイについてもズブツォーフ公としている文献があるが、はっきりしない。

 父の死後トヴェーリ大公位を継いだふたりの叔父と敵対したのは、フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチだった。1345年以降20年にわたって、トヴェーリ大公位を巡りフセーヴォロド・アレクサンドロヴィチコンスタンティーン・ミハイロヴィチ、次いでヴァシーリー・ミハイロヴィチとの対立が続く。この段階では、ミハイール・アレクサンドロヴィチの名はほとんど表に出てこない。あるいは兄に忠実に仕えていたのか、あるいは傍観を決め込んでいたのか。
 1363年、ヴァシーリー・ミハイロヴィチがミクーリンを攻撃。ミハイール・アレクサンドロヴィチが初めて内紛に顔を出した。

 1364年頃から再び北東ルーシを襲った疫病(黒死病)は、ロストーフ=ボリソグレーブスキー公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチと長男・次男、ズヴェニーゴロド公イヴァン小公ニージュニー・ノーヴゴロド公アンドレイ・コンスタンティーノヴィチなどの命を奪っていったが、トヴェーリにも大きな被害をもたらした。正確な年は文献によって違うが、1364年から66年までの間に、兄フセーヴォロド、アンドレイ、ヴラディーミル、さらに従兄弟のドロゴブージュ公セミョーン・コンスタンティーノヴィチが黒死病に倒れている。
 アンドレイとヴラディーミルがミハイールの兄であったにせよ弟であったにせよ、フセーヴォロドとともに全滅したことで、ミハイールがアレクサンドロヴィチ兄弟唯一の生き残りとなった。ヴァシーリー・ミハイロヴィチに対抗する勢力として、ミハイール・アレクサンドロヴィチがクローズアップされることになる。
 時あたかも、子なくして死んだセミョーン・コンスタンティーノヴィチが、遺領を自分の弟エレメイ・コンスタンティーノヴィチではなくミハイール・アレクサンドロヴィチに遺贈した。ミハイール・アレクサンドロヴィチは、叔父ヴァシーリー・ミハイロヴィチだけでなく、従兄弟エレメイ・コンスタンティーノヴィチとも紛争の火種を抱え込むことになった。

 ヴァシーリー・ミハイロヴィチモスクワ公の支援を得ていた。これに対して兄は妹(?)ウリヤーナをリトアニア大公アルギルダスと結婚させ、その支援を仰いできた。
 1364年(?)、ミハイール・アレクサンドロヴィチはリトアニア軍の支援を得てトヴェーリを占領。さらに叔父の本領カーシンも攻略し、ヴァシーリー・ミハイロヴィチを屈服させた。
 1367年、ミハイール・アレクサンドロヴィチはリトアニアを訪問。この隙に、モスクワ大公ドミートリー・ドンスコーイの支援を得たヴァシーリー・ミハイロヴィチエレメイ・コンスタンティーノヴィチがミハイール・アレクサンドロヴィチの分領に侵攻。ミハイール・アレクサンドロヴィチはアルギルダスから支援を得て急遽帰国し、両者を撃破した。ミハイール・アレクサンドロヴィチはヴァシーリー・ミハイロヴィチと講和し、トヴェーリ公領の覇権を握った。ヴァシーリー・ミハイロヴィチはカーシンに隠遁する。
 他方、エレメイ・コンスタンティーノヴィチはモスクワに逃亡した。
 ドミートリー・ドンスコーイは府主教アレクシーを動かし(トヴェーリ主教ヴァシーリーはミハイール・アレクサンドロヴィチ側に立ち、正教会内部にも亀裂が生じていた)、1368年、ドロゴブージュ問題の解決のためにミハイール・アレクサンドロヴィチをモスクワに召喚。モスクワに赴いたミハイール・アレクサンドロヴィチはそのまま監禁されてしまう。ただしハーンの使節の介入によりすぐに釈放された。
 結局ミハイール・アレクサンドロヴィチは、ドロゴブージュを含むセミョーン・コンスタンティーノヴィチの遺領の一部をエレメイ・コンスタンティーノヴィチに割譲。これによりエレメイ・コンスタンティーノヴィチとの内紛を終わらせた。
 ここにようやく1340年代から20年以上続いてきたトヴェーリの内紛が終息した。

 1368年、ヴァシーリー・ミハイロヴィチの死で、名実ともにミハイール・アレクサンドロヴィチがトヴェーリ大公となった。
 こうして国内の敵を一掃したミハイール・アレクサンドロヴィチは、リトアニアの全面的な支援を得てモスクワに侵攻(アルギルダスケーストゥティスヴィタウタスも自ら出陣した)。スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチも加わり、モスクワを攻囲する。

 1370年、逆にドミートリー・ドンスコーイがトヴェーリに侵攻。ミハイール・アレクサンドロヴィチはリトアニアに逃亡し、再びアルギルダススヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチの支援を得てモスクワに侵攻する。

 2度の激突で埒が明かないと見て、ミハイール・アレクサンドロヴィチは1371年にサライへ。ヴラディーミル大公位を認める認可状をメフメト=スルターン(実際はママイ)から獲得し、さらにハーンの使節を引き連れて帰還する。しかしヴラディーミル市民は、ミハイール・アレクサンドロヴィチを大公として認めなかった。

 1372年にもモスクワに侵攻し、ドミートロフやペレヤスラーヴリ(=ザレスキー)を攻めた。

 1375年、ミハイール・アレクサンドロヴィチは改めてハーンから認可状を獲得。タタール軍とリトアニア軍を引き連れてモスクワに侵攻する構えを見せた。
 しかし軍が集結する前に、ドミートリー・ドンスコーイがスーズダリ、ロストーフ、ヤロスラーヴリの諸公、上流諸公、それどころかスモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチ、トヴェーリのカーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチさえも引き連れて、トヴェーリに侵攻。ミハイール・アレクサンドロヴィチはトヴェーリに立てこもるが、最終的に降伏した。
 ミハイール・アレクサンドロヴィチは、トヴェーリに対するモスクワの上位権を認め、その軍事行動に従うことを約束。またカーシン公のトヴェーリからの独立も認めた。トヴェーリとモスクワの長年の対立は、モスクワの勝利に終わった。

 以後の四半世紀は内政に専念した。長年の戦乱で疲弊していたトヴェーリは、この時代に復興を果たした。

 1380年のクリコーヴォの戦いには従軍せず(ただし甥のホルム公イヴァン・フセヴォローディチにトヴェーリ軍を指揮させて派遣したとも言われる)。

 1382年、トクタミシュがモスクワを攻略。クリコーヴォの戦い後モスクワが疲弊しており、しかもトクタミシュとの関係も最悪の状況にあると見て、ミハイール・アレクサンドロヴィチはトクタミシュに接近。サライに伺候して、ヴラディーミル大公位の認可状を獲得しようと策動した。もっとも、トクタミシュには相手にされなかったらしい。
 なお、この年カーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチ(あのヴァシーリー・ミハイロヴィチの孫)が死去。カーシン公家は断絶し、ミハイール・アレクサンドロヴィチは一旦独立したカーシン公領を労せず獲得した。

 1396年にもサライに伺候している。

 かれは叔父と戦ってトヴェーリ大公位を確保したが、そのため兄の遺児である甥のホルム公ユーリーイヴァンのフセヴォローディチ兄弟を警戒した。特に晩年に入ると自分の息子にトヴェーリ大公位を移譲したくもなったはずで、当然年長権を有する甥たちとの関係も緊張したであろう。1397年にイヴァン・フセヴォローディチがモスクワに逃亡しているが、これもおそらくはミハイール・アレクサンドロヴィチが圧迫したためであろう。

 修道名マトフェーイ。

 なお、大公を自称した最初のトヴェーリ公がミハイール・アレクサンドロヴィチだとする文献がある。

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