リューリク家人名録

コンスタンティーン・ミハイロヴィチ

Константин Михайлович

ドロゴブージュ公 князь Дорогобужский
トヴェーリ公 князь Тверской (1329-37, 39-45)

生:1303?
没:1345−サライ

父:トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチトヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:アンナロストーフ公ドミートリー・ボリーソヴィチ

結婚①:1320
  & ソフィヤ公女 (モスクワ公ユーリー・ダニイーロヴィチ

結婚②:
  & エヴドキーヤ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ソフィヤ・ユーリエヴナと
1セミョーン-1364ドロゴブージュ
2エレメイ-1372ドロゴブージュアナスタシーヤ-1407

第13世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。

 カーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチとの長幼の順が不明。
 どちらも生年がはっきりせず、諸説ある。コンスタンティーン・ミハイロヴィチの場合、1306年説が一般的なようで(1303年説は Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 だけ)、わたしの参照したすべての文献で「1304年頃生」とされているヴァシーリー・ミハイロヴィチの弟ということになる。
 ところがその一方で、多くの文献がコンスタンティーン・ミハイロヴィチを「兄」と明記している。トヴェーリ大公位はコンスタンティーン ⇒ ヴァシーリーの順で継承されているから、やはりそういうことなのだろうか。

 1318年、父に従いサライへ。ここで父はハーンに殺され、コンスタンティーン・ミハイロヴィチはモスクワ公ユーリー・ダニイーロヴィチの捕虜となる。
 トヴェーリ公位を継いだ長兄ドミートリー雷眼公に買い戻され、モスクワとの関係改善の証として1320年にソフィヤ・ユーリエヴナと結婚させられた。
 ちなみにミハイロヴィチ兄弟の分領についてはよくわからない。弟(?)ヴァシーリーはこの時カーシンをもらったとする文献が多い一方、コンスタンティーンがドロゴブージュをもらったのがいつかは明記されていない。次兄アレクサンドルにいたっては、そもそも分領がどこだったのか記している文献は皆無である。

 1327年、トヴェーリで民衆暴動が勃発し、キプチャク・ハーンの使節(ウズベク・ハーンの従兄弟チョル・ハーンとその一行)が殺害される。これに乗じたモスクワ公イヴァン1世・カリターが、ウズベク・ハーンの承認を得て軍事介入。当時トヴェーリ公だった次兄のアレクサンドル・ミハイロヴィチはプスコーフに亡命する。コンスタンティーン・ミハイロヴィチもヴァシーリー・ミハイロヴィチと母とともにラードガに逃亡。
 とはいえ、今回の事態の責任者であるアレクサンドル・ミハイロヴィチに比べれば弟たちの罪は軽く、コンスタンティーンとヴァシーリーの兄弟もその後トヴェーリに帰還した。
 コンスタンティーン・ミハイロヴィチは1328年(29年?)にサライに赴き、ウズベク・ハーンからトヴェーリ公位の認可状をもらった。ヴラディーミル大公位はイヴァン・カリターが獲得した。

 コンスタンティーン・ミハイロヴィチは、親族であったということもあり、また当時の力関係からも、イヴァン・カリターへの従属的な立場に甘んじた。1329年には共同で兄にサライ出頭を迫り、1331年にはともにサライに伺候し、1333年にはそのノーヴゴロド遠征に従軍している。
 その一方で、混乱したトヴェーリ国内に秩序を取り戻し、国力回復に力を注いだ。

 1334/37/38年(史書により一致しない)、ウズベク・ハーンに赦され、アレクサンドル・ミハイロヴィチトヴェーリ公位を回復する。コンスタンティーン・ミハイロヴィチはトヴェーリを去り、本領ドロゴブージュに帰還した。あまり権力には執着がなかったのか、この時兄との間に悶着は起こさず、あっさりトヴェーリを明け渡したようだ。
 しかしアレクサンドル・ミハイロヴィチの復位とともに、トヴェーリとモスクワの対立が再燃。イヴァン・カリターの謀略で、1339年、アレクサンドル・ミハイロヴィチはサライで殺された。
 コンスタンティーン・ミハイロヴィチは、再びウズベク・ハーンからトヴェーリ公位を認めてもらう。

 コンスタンティーン・ミハイロヴィチは、相変わらずモスクワ公への従属的立場を堅持した。それはイヴァン・カリターが死んでセミョーン傲慢公が跡を継いでも変わらなかった。イヴァン・カリターが死んだ際に、ヴラディーミル大公位継承においてセミョーン傲慢公の対抗馬となったのはコンスタンティーン・ミハイロヴィチではなく、スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチだった。

 年代記の伝えるところによると、1345/46年、甥のホルム公フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチとの関係が悪化。フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチセミョーン傲慢公に泣きつき、埒が明かないとなるや(当たり前だ)、サライに直訴しに行った。コンスタンティーン・ミハイロヴィチも後を追ってサライに赴くが、決着を見ないままサライで死んだ。

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