ボリース・アレクサンドロヴィチ
Борис Александрович
トヴェーリ大公 великий князь Тверской (1426-61)
生:1399?
没:1461.02.10
父:トヴェーリ大公アレクサンドル・イヴァーノヴィチ (トヴェーリ大公イヴァン・ミハイロヴィチ)
母:? (モローガ公フョードル・ミハイロヴィチ)
結婚①:
& アナスタシーヤ公女 -1451 (モジャイスク公アンドレイ・ドミートリエヴィチ)
結婚②:1453
& アナスタシーヤ公女 (アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・グラザートィー=シュイスキー公)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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アナスタシーヤ・アンドレーエヴナと | ||||||
1 | マリーヤ | -1468 | モスクワ大公イヴァン3世大帝 | 1440-1505 | ||
2 | アレクサンドル | |||||
アナスタシーヤ・アレクサンドロヴナと | ||||||
3 | ミハイール | 1453-1505 | トヴェーリ | ソフィヤ | -1483 | スルーツク公セミョーン・オレリコヴィチ |
第17世代。モノマーシチ(トヴェーリ系)。
1425年から26年にかけて、祖父イヴァン・ミハイロヴィチ、父アレクサンドル・イヴァーノヴィチ、兄ユーリー・アレクサンドロヴィチが相次いで死去。
兄ユーリー・アレクサンドロヴィチには男子がいたが、遺児イヴァン・ユーリエヴィチはまだ幼児であり、大叔父のカーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチが大公位を狙っている状況では大公位を継ぐのは無理があった。そこでボリース・アレクサンドロヴィチが後継のトヴェーリ大公となる。
ボリース・アレクサンドロヴィチはイヴァン・ユーリエヴィチにズブツォーフを分領として与え、他方でヴァシーリー・ミハイロヴィチを投獄して、大公位を巡る問題に一応の決着をつけた。
トヴェーリはモスクワに圧迫されて久しく、大公となったボリース・アレクサンドロヴィチは1427年に早速リトアニア大公ヴィタウタスと協定を結ぶ。1428年にはヴィタウタスのノーヴゴロド遠征を支援した。
1430年にヴィタウタスが死ぬと、後を継いだシュヴィトリガイラの妃はボリース・アレクサンドロヴィチの従姉妹。リトアニア大公位を巡って、ヴィタウタスの弟ジギマンタスと争うシュヴィトリガイラを支援し、1432年には弟のゴロデーツ公ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチを派遣している。
とはいえ、個人的な事情でトヴェーリの基本政策を変更することはせず、1432年以降にジギマンタスが大公位を確保すると、ボリース・アレクサンドロヴィチはジギマンタスと同盟を結ぶ。
モスクワ大公国内の内紛(1433-34、36)には、積極的にはかかわっていない。
1440年、リトアニア大公ジギマンタスが死去。後を継いだのは、ポーランド王ヴワディスワフ3世の弟カジミエラス/カジミェシュだった。もともとカジミエラスとの関係が悪かったのか、あるいはこれによりリトアニアの圧迫が強まることを懸念したのか、ボリース・アレクサンドロヴィチは方針を転換し、リトアニアとの同盟を破棄。モスクワ大公ヴァシーリー2世と攻守同盟を結ぶ。
ノーヴゴロドとは一貫して敵対。1440年にはヴァシーリー2世のノーヴゴロド遠征を支援し、1444年には自らノーヴゴロドに侵攻している。1446年にもノーヴゴロドに遠征し、当時内紛とリヴォニア騎士団との対立に追われていたノーヴゴロドから領土を奪う。
1445年にドミートリー・シェミャーカがモスクワ大公位を狙ってヴァシーリー2世と対立した際には、ボリース・アレクサンドロヴィチはドミートリー・シェミャーカ側に立った。1446年、ドミートリー・シェミャーカはヴァシーリー2世の目をつぶし、ウーグリチに幽閉した。
しかしドミートリー・シェミャーカがヴァシーリー2世を釈放すると、ボリース・アレクサンドロヴィチは立場を一転させ、ヴァシーリー2世をトヴェーリに招く。以後、ドミートリー・シェミャーカとの戦いでは中心となって活躍。ヴァシーリー2世の復位の立役者となった。その返礼として、ドミートリー・シェミャーカが領有していたルジェーフを割譲される。
ボリース・アレクサンドロヴィチはルジェーフを訪問するが、臣従の誓いは強制しなければならなかった。しかもこの時、リトアニア軍がルジェーフを攻囲。ボリース・アレクサンドロヴィチは命からがら逃亡し、捕虜となることは免れた。
1447年、ヴォーログダで、ボリース・アレクサンドロヴィチの幼い娘マリーヤと、ヴァシーリー2世の幼い息子イヴァンとの結婚式を盛大に執り行う。
1449年、カジミエラスとの間に、かつてヴィタウタスと結んだのと同様の同盟を結ぶ。
1454年にドミートリー・シェミャーカが死んで、モスクワ国内の騒乱が最終的に終結すると、ボリース・アレクサンドロヴィチは改めてヴァシーリー2世との協調路線に転ずる。