リューリク家人名録

ヴァシーリー・ヴラディーミロヴィチ・ドルゴルーキー

Василий Владимирович Долгорукий

князь
ロシア元帥 (1728-46)

生:1667
没:1746−サンクト・ペテルブルグ

父:ヴラディーミル・ドミートリエヴィチ・ドルゴルーキー公ドミートリー・アレクセーエヴィチ・ドルゴルーキー公
母:?

結婚①:
  & マリーヤ公女 -1695 (フョードル・フョードロヴィチ・クラーキン公)

結婚②:
  & アンナ (イヴァン・イヴァーノヴィチ・ズロービン)

結婚③:
  & アンナ 1690-1720 (ピョートル・ヴァシーリエヴィチ・シェレメーテフ伯)

子:なし

第25世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。ロシア貴族。

 皇帝ピョートル1世大帝の下、軍人として活躍。
 1700年からプレオブラジェンスキー連隊へ。北方戦争にも従軍。1708年、ブラーヴィン率いるドン・コサックの反乱の鎮圧に派遣される。1709年、ポルターヴァの戦いで騎兵を率いて活躍。1711年にはプルート河遠征にも従軍している。
 しかしピョートルの改革には批判的で、ツァレーヴィチ・アレクセイに接近。そのため、1718年、ソリカムスクに流刑。

 1724年、一族のヴァシーリー・ルキーチ・ドルゴルーキー公の働きで赦され、帰還。
 1726年、女帝エカテリーナ1世により、カフカーズ全軍の総司令官に任命される。1728年、皇帝ピョートル2世によりサンクト・ペテルブルグに召還される。

 1730年、ピョートル2世が死んだ時には、女帝アンナ・イヴァーノヴナの帝権を制限しようとするドミートリー・ミハイロヴィチ・ゴリーツィン公の動きには反対。
 1731年、密告により、イヴァンゴロド城砦に幽閉。1739年、ソロフキーに流刑される。

 1741年、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ(ヴァシーリー・ヴラディーミロヴィチの名付け子)により呼び戻される。軍事参事会議長。

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