イヴァン・ユーリエヴィチ «ボリショーイ»
Иван Юрьевич "Большой", "Толстая Голова"
ヴォルコーニ公 князь Волконский
生:?
没:?
父:トルーサ公ユーリー・ミハイロヴィチ (チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ)
母:アガーフィヤ
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
フョードル | -1380 | |||||
ムスティスラーフ | -1380 |
第13世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
イヴァン・ユーリエヴィチは、同時代の年代記や史料では名前すら言及されない。ただ一族の系図に出てくるだけの存在である。
もっともそれを言ったら、ヴォルコンスキー公家そのものが16世紀になって初めて同時代史料に登場する。極論すれば、それ以前の300年に及ぶ一族の歴史はすべて「でっち上げ」であるかもしれない。
一族の系図によれば、イヴァン・ユーリエヴィチの母アガーフィヤは正式な妃ではなかった。ヴォルコーニ河畔に領土をもらい、ヴォルコンスキー公家の祖となる。
なお、クリコーヴォの戦いの戦死者リストにあるフョードル・トルーススキー公とムスティスラーフ・トルーススキー公のふたりは、イヴァン・ユーリエヴィチの子だとされる。
イヴァン・ユーリエヴィチにせよ父ユーリー・ミハイロヴィチにせよ、生没年については知られていない。しかし、祖父ミハイール・フセヴォローディチが1179-1246であることを考えてみると、クリコーヴォの戦いで戦死したフョードル & ムスティスラーフ兄弟がその3世代後の孫、というのは年代的に少々無理がある。
フョードル・トルーススキー公の子と見られる人物が15世紀前半に記録されているし、フョードル・トルーススキー公がクリコーヴォの戦いで戦死したというのは事実と見ていいだろう。問題は、フョードル・トルーススキー公がイヴァン・ユーリエヴィチの子か否か、子だとするとイヴァン・ユーリエヴィチと父とされるユーリー・ミハイロヴィチとの間には1世代か2世代が欠けているのではないか。
子ではないとすると、では孫か曾孫か、あるいはもしかしたら、そもそも何のつながりもなかったのかもしれない。
なお、一族の系図によると «添え名» として、«ボリショーイ» や «トールスタヤ・ゴロヴァー»、あるいは «ボリシャーヤ・ゴロヴァー» などが挙げられている。«ボリショーイ»・«ボリシャーヤ» は「大きい」、«トールスタヤ» は「太い」、«ゴロヴァー» は「頭」という意味である。