リューリク家人名録

イヴァン・ヴラディーミロヴィチ・オボレーンスキー «ルィコ»

Иван Владимирович Оболенский "Лыко"

князь

生:?
没:?

父:ヴラディーミル・イヴァーノヴィチ・オボレーンスキー公オボレーンスク公イヴァン・コンスタンティーノヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
ヴァシーリー
ミハイール
フョードル
イヴァン
イヴァン

第18世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。モスクワ大公の勤務公。ルィコフ=オボレーンスキー公家の祖。

 1478年、ノーヴゴロド遠征に従軍。
 ノーヴゴロド陥落後は、ヴェリーキエ・ルーキの代官に任命されるが、あまりの悪政故に多数の住人がリトアニアやトヴェーリに逃亡し、ついにはイヴァン3世大帝に上訴。イヴァン・ヴラディーミロヴィチはイヴァン3世大帝のもとを離れ、ヴォロク公ボリース・ヴァシーリエヴィチに仕える。
 分領公には「他領を逃亡したボヤーリンを自由に受け入れる権利」が認められていた。しかし当時イヴァン3世大帝は中央集権化を推し進めていたため、イヴァン・ヴラディーミロヴィチを罰することを決意。とはいえボリース・ヴァシーリエヴィチは兄イヴァン3世大帝と敵対しており、イヴァン・ヴラディーミロヴィチを引き渡すようイヴァン3世大帝から要求されてもこれを蹴った。イヴァン・ヴラディーミロヴィチがボリース・ヴァシーリエヴィチを主君に選んだにはこの点の考慮もあったのだろうが、イヴァン3世大帝は弟の分領内で秘密裏にイヴァン・ヴラディーミロヴィチを捕らえ、モスクワに連行。分領公としての権利を侵されたボリース・ヴァシーリエヴィチは兄と内紛を始めた。

 反逆の罪で罰せられたイヴァン・ヴラディーミロヴィチだったが、いずれかの時期に赦されたものと見られる。1483年にはクリム・ハーンのもとへ使節として派遣されている。
 1487年にはヴャートカに遠征。以後数年をかけてこの地方の鎮定に従事。
 1492年、再び西方に派遣され、ノーヴゴロドの代官。リトアニアとの戦闘にも従軍した。
 1507年、ヴャートカ総督。

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