イズャスラーフ・ダヴィドヴィチ
Изяслав Давыдович
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1152-54, 55-57)
キエフ大公 великий князь Киевский (1154-55, 57-58, 62)
生:?
没:1162.03.06
父:チェルニーゴフ公ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ (キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | スヴャトスラーフ | |||||
2 | ? | グレーブ・ユーリエヴィチ | -1171 | ペレヤスラーヴリ公 |
第8世代。スヴャトスラーヴィチ。
生年の考察については、兄のヴラディーミル・ダヴィドヴィチの項を参照のこと。
1123年、父が死去。スヴャトスラーヴィチ伝来の領土は、チェルニーゴフもノーヴゴロド=セーヴェルスキーもムーロム=リャザニも、すべてまとめて叔父ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ(父の世代唯一の生き残り)が継承した。
1139年、従兄弟チェルニーゴフ公フセーヴォロド・オーリゴヴィチがキエフ大公となる。これに伴い、兄ヴラディーミル・ダヴィドヴィチがチェルニーゴフ公となった。
スヴャトスラーヴィチ一族(ダヴィドヴィチ兄弟とオーリゴヴィチ兄弟)には、領土分配についての不満があった。1142年、ヴラディーミルとイジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟、イーゴリとスヴャトスラーフのオーリゴヴィチ兄弟がキエフに赴き、オーリゴヴィチ兄弟の長兄であるフセーヴォロド・オーリゴヴィチと談合。しかし決裂し、4人の不満分子はフセーヴォロド・オーリゴヴィチと戦う。
その後、ダヴィドヴィチ兄弟の弟(兄?)聖スヴャトーシャの仲裁で和解し、キエフ公領に若干の都市を分け与えられた。
1143年にはフセーヴォロド・オーリゴヴィチによりポーランドに派遣されている。
フセーヴォロド・オーリゴヴィチは、その死に臨んで、弟のイーゴリ・オーリゴヴィチへのキエフ大公位譲渡を望んだ。これにはスヴャトスラーヴィチ一族も同意し、誓約をしている。
ところが1146年にフセーヴォロド・オーリゴヴィチが死ぬと、ヴラディーミルとイジャスラーフのダヴィドヴィチ兄弟は支援に赴こうとはせず、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公位を奪う。
スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチがロストーフ=スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーと同盟すると、ダヴィドヴィチ兄弟はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの側に立ち、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチにノーヴゴロド=セーヴェルスキーを要求している。
しかし1147年にはスヴャトスラーフ & ユーリー側に寝返る。
1148年にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチにチェルニーゴフを攻略されると、これと講和。
1149年、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチを支援して、ペレヤスラーヴリ近郊でユーリー・ドルゴルーキーを迎え撃つ。敗北して領土を没収されると、再び兄とともにスヴャトスラーフ & ユーリー側に寝返る。
変節常なきダヴィドヴィチ兄弟だったが、結局はチェルニーゴフの領土保全のためであったと言える。
1151年、これまで長年にわたって行動をともにしてきたダヴィドヴィチ兄弟が、生涯で初めて袂を分かつ。ヴラディーミル・ダヴィドヴィチがユーリー・ドルゴルーキー側にとどまったのに対して、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ側に寝返った。
1152年、両軍は衝突し、ヴラディーミル・ダヴィドヴィチは戦死した。
イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは兄の遺骸をチェルニーゴフに運んで埋葬すると、そのまま兄の遺領を継承してチェルニーゴフ公となる。これにより、ユーリー・ドルゴルーキーの南ルーシにおける勢力は著しく後退した。
なおこの時に、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチと和解して、スヴャトスラーヴィチ一族の領土分割に関して合意したとも言われる。
1152年、ユーリー・ドルゴルーキーがポーロヴェツ人を伴ってチェルニーゴフに侵攻。スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ(イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの弟)とスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが加わり籠城を続け、さらにイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチもかけつけて、ユーリー・ドルゴルーキーを撃退した。
1154年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが死去。
その弟ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフ大公位を継承するが、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチもまたキエフ獲得に動き出す。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチに対抗するため、スヴャトスラーフ & ユーリー側と和解した。
イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは娘婿グレーブ・ユーリエヴィチとともにポーロヴェツ人を率いてキエフに侵攻。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを破り、スモレンスクに追う。
キエフ大公位を獲得したイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、グレーブ・ユーリエヴィチにペレヤスラーヴリを与える。しかしもともと自身がキエフ大公位を目指していたユーリー・ドルゴルーキーが、ペレヤスラーヴリだけで満足できようはずもない。その圧力に屈し、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはキエフを明け渡してチェルニーゴフに帰還した(なおこれに際して、両者間の関係強化のため、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチの娘がユーリー・ドルゴルーキーの息子グレーブ・ユーリエヴィチと結婚している)。
しかしイジャスラーフ・ダヴィドヴィチがこれに不満を覚えないわけはない。キエフの奪還を目指すロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ、亡き父の後を継いでキエフ大公位を目指すムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと、ユーリー・ドルゴルーキーに敵対する勢力は多かった。かれらは1156年には同盟を結び、包囲網を形成した。
かれらがまさにキエフに侵攻しようとした矢先の1157年、ユーリー・ドルゴルーキーが死去。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは急行し、キエフ大公位を確保した。
キエフ大公となったイジャスラーフ・ダヴィドヴィチの先ずやったことは、足場固めである。同盟を結んでいたロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチもムスティスラーフ・イジャスラーヴィチも、キエフ大公位を獲得してしまった途端にライバルである。自身の大公位を確固たるものとするには、スヴャトスラーヴィチ一族を支持基盤として結束させる以外にない。
長年ユーリー・ドルゴルーキーと同盟してきたスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチをチェルニーゴフ公として懐柔。さらにスヴャトスラーフ・フセヴォローディチをノーヴゴロド=セーヴェルスキー公とした。
ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルはガーリチ全土を支配していたが、かつてガーリチから追われたイヴァン・ベルラードニクが応分の権利を持っており、ヤロスラーフ・オスモムィスルにとってイヴァン・ベルラードニクは排除すべき存在であった。
このイヴァン・ベルラードニクは、1158年当時はイジャスラーフ・ダヴィドヴィチのもとにいた。いかなるいきさつからかは不明だが、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチが拾って、以来かれの下で働いていたのである。
イジャスラーフ・ダヴィドヴィチのもとには、イヴァン・ベルラードニクを引き渡すよう要求が来た。ヤロスラーフ・オスモムィスルからのみならず、かれが手をまわしたおかげで、ルーシ諸公、ポーランド諸侯、はてはハンガリー王からも。
イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、これらの要求を拒否。これが反イジャスラーフ派にとっては絶好の口実となった。
1159年、ヤロスラーフ・オスモムィスル、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・アンドレーエヴィチがキエフに侵攻。ベールゴロドを奪われたイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、ポーロヴェツ人を率いて、逆にベールゴロドに侵攻軍を攻囲した。しかしここでポーロヴェツ人が裏切り、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはヴャーティチ人の地に逃亡。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが大公位に就いた。
今回の敗北の要因のひとつが、救援にかけつけなかった一族にあると考えたイジャスラーフ・ダヴィドヴィチは、チェルニーゴフとノーヴゴロド=セーヴェルスキーの諸都市を攻略。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと結んでこれに対抗した。
その後イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはポーロヴェツ人を率いてスモレンスクを攻略。
いずれもこれといった実を結ばず、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは一時期は甥スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチのヴシチージュに身を潜めた。
1161年、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキーと同盟。さらにスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとオレーグ(スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの子)と同盟し、ペレヤスラーヴリに侵攻。娘婿グレーブ・ユーリエヴィチと対峙した。しかしそこにロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが駆け付け、イジャスラーフ・ダヴィドヴィチはステップに逃亡した。
1162年にはロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを破り、キエフを奪回した。
さらにベールゴロドに逃亡したロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを攻囲。しかし攻囲戦の続く中、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ、さらにリューリク(ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子)も襲来。イジャスラーフ・ダヴィドヴィチは攻囲を解いて逃亡。しかし追撃軍により殺された。
遺骸はムスティスラーフ・イジャスラーヴィチによってキエフに運ばれ、そこからチェルニーゴフに移されて聖ボリース・グレーブ教会に埋葬された。