リューリク家人名録

グレーブ・スヴャトスラーヴィチ

Глеб Святославич

トムタラカーニ公 князь Тмутараканский (1064、1066-68)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1069-78)

生:?
没:1078.05.30

父:キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公
母:?

結婚:?

子:?

第7世代。スヴャトスラーヴィチ。

 スヴャトスラーヴィチ5兄弟の長幼の順は必ずしもはっきりしないが、一般にグレーブ・スヴャトスラーヴィチが長男だと考えられている。父の生年が1027年とされているので、グレーブ・スヴャトスラーヴィチの誕生は大雑把に1050年頃だと考えることができよう(弟と思われるオレーグ・スヴャトスラーヴィチの誕生を1053年とする史料もある)。

 父の領土は、いわゆるセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(のちのチェルニーゴフとノーヴゴロド・セーヴェルスキー)、ムーロム=リャザニ、そしてトムタラカーニだった。チェルニーゴフに居を構えていた父は、飛び地トムタラカーニを統治するため、特別にグレーブ・スヴャトスラーヴィチを派遣する。
 しかし当時、父等ヤロスラーヴィチ3兄弟により疎外されていたその甥たち(グレーブの従兄弟たち)が、ヤロスラーヴィチ3兄弟の秩序に異議申し立てを行っており、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチがトムタラカーニに侵攻。グレーブ・スヴャトスラーヴィチは逃亡した。
 これに対して父がトムタラカーニに侵攻すると、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチは逃亡。しかし父がチェルニーゴフに帰還すると、再びトムタラカーニを支配した。
 1066年、ロスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチが死去。聖ニーコンの依頼により、再びグレーブ・スヴャトスラーヴィチがトムタラカーニに派遣された。

 1067年、伯父のキエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチによりノーヴゴロド公として派遣される。しかしポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチキエフ大公となると、トムタラカーニに帰還。
 石碑によれば、1068年にトムタラカーニと対岸のケルチとの間の距離を測量している。おそらくケルチも領土としていたのだろう(トムタラカーニはロシア連邦タマン半島の先端。ケルチはウクライナ共和国クリミア半島の東端。その間を、黒海とアゾーフ海とを結ぶケルチ海峡が流れている)。

 1069年、ノーヴゴロドに帰還し、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチと戦う。その攻囲を受けるが、これを撃退した。

 1073年に父がキエフ大公となると、ペレヤスラーヴリ公となったとも言われる。その場合でも、1077年に叔父フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチキエフ大公になると、ノーヴゴロドに追い返された。もっとも、そうだとすると、その間に誰がノーヴゴロドを支配していたか不明。

 1078年、ノーヴゴロドに «ヴォルフヴ» が現れ、市民から大きな崇拝を受けた。
 «ヴォルフヴ» とは、「魔法使い」とか「占星術師」とか訳されることが多いが、おそらくは異教時代の祭司のこと(こちらも参照)。ヴラディーミル偉大公による改宗からまだ100年も経たない時であり、依然として異教信仰や異教的要素が根強く残っていたものと思われる。
 ヴォルフヴは公と教会に対する反感を煽り、主教フョードルすらも追放されかかったが、グレーブ・スヴャトスラーヴィチが断固たる態度でこれを処刑し、市民は蒙から覚めたと年代記は言う。そのわりにはノーヴゴロド市民に追われて公位を失っている。おそらく年代記の記述は作者がキリスト教徒であるために偏向があり、実際には市民はヴォルフヴを処刑したグレーブ・スヴャトスラーヴィチに反感を募らせたのだろう。
 グレーブ・スヴャトスラーヴィチはノーヴゴロド公位を奪還するため、従兄弟のヴラディーミル・モノマーフに救援を要請するが断られ、ヴォロクに逃亡。チューディ人に殺された。
 遺体はチェルニーゴフに運ばれ、父の傍らに埋葬された。

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