ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ
Давыд Святославич Муромский
スモレンスク公 князь Смоленский (1087-97)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1095)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1097-1123)
生:?
没:1123−チェルニーゴフ
父:キエフ大公スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ (キエフ大公ヤロスラーフ賢公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ヴラディーミル | -1151 | チェルニーゴフ | ? | グロドノ公フセーヴォロド・ダヴィドヴィチ | |
2 | イジャスラーフ | -1161 | チェルニーゴフ | |||
3 | フセーヴォロド | ムーロム | ||||
4 | スヴャトスラーフ | -1142 | ルーツク | アンナ | キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ | |
5 | ロスティスラーフ | -1120 |
第7世代。スヴャトスラーヴィチ。
スヴャトスラーヴィチ兄弟の長幼の順ははっきりしない。グレーブが長男、ロマーンが次男、そしてヤロスラーフが末男という点はまず間違いなかろうが、ダヴィドとオレーグのどちらが先かがわからない。些細な問題ではあるが、叙述の都合上、ここではダヴィド・スヴャトスラーヴィチを兄として記述することにする。
その場合、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは1050年頃の生まれとされ、1053年と具体的な数字が挙げられることもある。ダヴィド・スヴャトスラーヴィチがその兄だとしても、やはりその生年は1050年頃のことだろう。
1073年、父がキエフ大公となるに伴い、ペレヤスラーヴリを与えられた? ペレヤスラーヴリはそれまで、叔父フセーヴォロドの領土であった。1073年、叔父は父に譲られてチェルニーゴフに移っている。父が息子を手近なペレヤスラーヴリに置きたいと考えたとしても不思議はなく、しかもその公位は空いていたのだから、ダヴィドがペレヤスラーヴリ公になってもおかしくない。ペレヤスラーヴリ公になったのはダヴィドではなく長兄グレーブだとする説もあるが、グレーブは当時ノーヴゴロド公であった。弟オレーグはロストーフ公、次いでヴラディーミル=ヴォルィンスキー公になったとされ、キエフ大公の父の下、スヴャトスラーヴィチ兄弟がルーシ各地に配置されたのかもしれない(ただし末弟ヤロスラーフはおそらくまだ幼少だったため除外された)。
1073 | 1077 | 1079 | 1083 | 1094 | 1097 | |
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グレーブ | ノーヴゴロド | ノーヴゴロド | −(1078年死去) | |||
ロマーン | トムタラカーニ | トムタラカーニ | −(1079年死去) | |||
ダヴィド | ペレヤスラーヴリ? | ムーロム? | ムーロム? | ムーロム? | スモレンスク? | チェルニーゴフ |
オレーグ | ヴォルィニ? | − | − | トムタラカーニ | チェルニーゴフ | ノーヴゴロド=セーヴェルスキー |
トムタラカーニ | トムタラカーニ | |||||
ヤロスラーフ | − | − | − | − | − | ムーロム |
ただし、この時期にはまだロマーンもダヴィドもオレーグも年代記には登場していない。すべては後世の想像の話でしかない。
1076年、父が死去。叔父フセーヴォロド(1076-77, 78-93)、伯父イジャスラーフ(1077-78)がキエフ大公位を継承する。その後は、従兄弟スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ(1093-1113)、従兄弟ヴラディーミル・モノマーフ(フセーヴォロドの子)(1113-25)が大公となる。
ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはペレヤスラーヴリを去り、ムーロムへ。ムーロム公になったとする文献もあるが? グレーブがノーヴゴロト公、ロマーンがトムタラカーニ公、そしてダヴィドがムーロム公として父の遺領を継いだ、ということかもしれない。あるいはキエフ近郊のペレヤスラーヴリから、遠方のムーロムへと左遷された、ということか(オレーグもどうやらヴォルィニから追われたらしい)。この辺りもまだ、後世の想像。
しかしイジャスラーヴィチとモノマーシチとがキエフ大公位を独占し、協調してキエフ・ルーシの覇権を握ると、スヴャトスラーヴィチ兄弟は疎外されていく。その結果が、1078年のオレーグによるチェルニーゴフ侵攻であろう。1079年にもロマーンがペレヤスラーヴリに侵攻している。いずれも伯父たち(この時点ではフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ単独)の覇権を覆すことができず、逆に一時はトムタラカーニをも失い、スヴャトスラーヴィチ兄弟は逼塞を余儀なくされた。
これら一連の騒動に、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはまったくかかわった形跡がない。ムーロムを与えられて満足していたのか(本当にムーロムを与えられていたとして)。
1093年、キエフ大公スヴャトポルク・イジャスラーヴィチからスモレンスクをもらったという説がある。もっとも当時おそらくスモレンスクはヴラディーミル・モノマーフの領土だったろうから、ヴラディーミル・モノマーフからもらったと言うべきだろう。あるいはこれは1087年のことともされるが、その場合はヴラディーミル・モノマーフの父であるフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチにもらったということになる。
いずれにせよ、これは不遇なスヴャトスラーヴィチ兄弟に対する一種の補償だったのではないだろうか。特に1087年であれば、それまで分領を一切与えていなかったロスティスラーヴィチ兄弟やダヴィド・イーゴレヴィチに分領を分け与えた直後であるから、スヴャトスラーヴィチ兄弟に限らず、これまで疎外してきた一族全員に対する宥和政策の一環ではないかと考えられる。
『原初年代記』によれば、1095年、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはノーヴゴロドからスモレンスクにやってきた。ノーヴゴロド市民はロストーフからムスティスラーフ偉大公を呼び寄せ、ダヴィト・スヴャトスラーヴィチに対しては「オレたちのところに来るな」と言い渡したという。「こうしてダヴィドはスモレンスクに戻り、スモレンスクに座った(公となった)」。
これが『原初年代記』におけるダヴィド・スヴャトスラーヴィチ初登場のシーンだが、一切の背景説明がないので、何が何やらまったくわからない。そこでその他の史料を駆使して、これに想像も加味してみると、おそらくダヴィド・スヴャトスラーヴィチはそれまでスモレンスク公だったのだろう(上述のとおり)。ところが何らかの理由でノーヴゴロド公に転出させられた。しかし、おそらくノーヴゴロド市民と対立したのだろう、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはノーヴゴロドからスモレンスクに戻った、ということなのだろう。
当時は弟(?)オレーグ・スヴャトスラーヴィチがキエフ大公スヴャトポルク & ヴラディーミル・モノマーフと対立していた時期であり、この一連のゴタゴタはそれと関連があるのかもしれない。
1096年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはスヴャトポルク & ヴラディーミル・モノマーフにチェルニーゴフを追われ、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチとともにキエフに出頭する約束をして解放された。チェルニーゴフを力づくで奪ったオレーグ・スヴャトスラーヴィチだけでなくダヴィト・スヴャトスラーヴィチもキエフに召喚されたということは、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチの行動もスヴャトポルク & ヴラディーミル・モノマーフの目から見ると «秩序を乱す行為» と見えた、ということか。
しかしスモレンスクにやってきたオレーグ・スヴャトスラーヴィチをスモレンスク市民は追い返してしまったらしい(『原初年代記』は「ダヴィド・スヴャトスラーヴィチが」ではなく「スモレンスク市民が」と言っている)。しかし同時に、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはスモレンスクで軍を得てムーロムに赴いた。もっともヴラディーミル・モノマーフがスモレンスクに侵攻してきて、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはこれと和解した(とヴラディーミル・モノマーフは言っている)。
1097年、一連の騒動に決着をつけるため、リューベチにて諸公会議が開催される。ダヴィド・スヴャトスラーヴィチもこれに出席した。
この会議でスヴャトスラーヴィチ兄弟には «ヴォーッチナ(父祖伝来の地)» としてセーヴェルスカヤ・ゼムリャーとムーロム=リャザニが与えられた。そして以後それぞれの «ヴォーッチナ» を尊重することが取り決められたので、スヴャトスラーヴィチ一族が以後代々セーヴェルスカヤ・ゼムリャーとムーロム=リャザニを相続していく権利が確認されたということになる。
ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはオレーグ・スヴャトスラーヴィチに代わってチェルニーゴフを領有し、オレーグ・スヴャトスラーヴィチはノーヴゴロド=セーヴェルスキー公となった。ムーロム=リャザニは末弟ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチに与えられた。なおこの時同時にダヴィド・スヴャトスラーヴィチにはルーツクも与えられたが、すぐにダヴィド・イーゴレヴィチに奪われた。
1097年、リューベチの諸公会議の直後、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチがダヴィド・イーゴレヴィチと組んでヴァシリコ・ロスティスラーヴィチを捕らえ、その目を潰すという事件が起こる。内紛を納めて諸公が協調しようとしたリューベチ会議の決議に真っ向から反するこの行為に、ヴラディーミル・モノマーフが激怒。1098年、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチもオレーグ・スヴャトスラーヴィチとともに軍勢を率いてゴロデーツのヴラディーミル・モノマーフのもとに集結する。
この圧力にスヴャトポルク・イジャスラーヴィチも屈し、ダヴィド・イーゴレヴィチに対する懲罰戦を約束した。
1099年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチによるダヴィド・イーゴレヴィチへの懲罰戦(結局これはヴォルィニ征服、さらにガーリチ侵攻へと変容したが)に、息子スヴャトーシャを派遣した。
もともと(少なくともオレーグ・スヴャトスラーヴィチに比べれば)協調的だったということもあるだろうが、新たに領土としたチェルニーゴフがポーロヴェツ人との最前線に位置していたため、ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはスヴャトポルク・イジャスラーヴィチやヴラディーミル・モノマーフの対ポーロヴェツ人対策に積極的に協力している。
1101年にもスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフ、オレーグ・スヴャトスラーヴィチ、さらにはヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチとともに集まり、対ポーロヴェツ人遠征を協議。
1101年、ペレムィシュリ公ヴォロダーリ・ロスティスラーヴィチとともにポーランドに侵攻。
1103年、スヴャトポルク・イジャスラーヴィチとヴラディーミル・モノマーフに従い、他の諸公とともに対ポーロヴェツ人遠征に従軍。ステップに遠征し、大勝利を収めた。
1107年の大遠征にはなぜか参加していないが、その年(翌年?)もう一度ヴラディーミル・モノマーフが行った遠征には、オレーグ・スヴャトスラーヴィチともども従軍。ただしこの時は戦闘が行われたかどうかは定かではなく、最後はポーロヴェツ人と講和している。
1110年にもスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフとともにデスナー河沿いにステップに遠征。しかし途中で引き返した。
1111年にもスヴャトポルク・イジャスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフとともにステップへ。遠征軍はアゾーフ海にまで到達したと言われ、大勝利を収めてポーロヴェツ人を東方へと追いやった。なお、これには息子もひとり伴っていたが、イパーティー年代記は誰と特定していない。
1115年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが死去。年代記には特に記されていないが、おそらくその遺領ノーヴゴロド=セーヴェルスキーはダヴィド・スヴャトスラーヴィチが相続したものと思われる。
1116年、ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチとヴラディーミル・モノマーフとの戦争が勃発。ダヴィド・スヴャトスラーヴィチはヤロポルク・ヴラディーミロヴィチ(ヴラディーミル・モノマーフの子)とともにドルツクに遠征し、これを占領する。
さらにこの年、息子フセーヴォロドをドン河に派遣し、ポーロヴェツ人と戦わせている。
1118年、ヴラディーミル・モノマーフ、ガーリチのロスティスラーヴィチ兄弟(ヴォロダーリ & ヴァシリコ)とともに、ヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチと戦う。