ヴァシーリイ・ユーリエヴィチ
Василий Юрьевич
シューヤ公 князь Шуйский
生:?
没:1446頃
父:シューヤ公ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ (ニジェゴロド=スーズダリ大公ヴァシーリイ・ドミートリエヴィチ・キルデャーパ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
アレクサンドル | ||||||
アンドレイ | ||||||
イヴァン | ||||||
1 | ヴァシーリイ・ブレードヌィイ | |||||
2 | ミハイール |
第17世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。モスクワ大公の勤務公。
史料では、ヴァシーリイとフョードルの兄弟が初登場するのは1446年になってからだと思う。
モスクワではすでに1425年のヴァシーリイ1世の死以来、跡を継いだヴァシーリイ2世とその叔父ユーリイ・ドミートリエヴィチとの関係が緊張しており、1433年には内紛が勃発してユーリイ・ドミートリエヴィチがモスクワ大公位を奪っている。かれが1434年に死んだ後も、その長男ヴァシーリイ・コソーイが1436年まで反抗を続ける。内乱は一旦収まるが、1446年にはドミートリイ・シェミャーカによって再開される。
純粋な想像にすぎないが、1433年〜36年の時点でヴァシーリイ & フョードルのユーリエヴィチ兄弟が姿を現さないというのは、つまりはこの時期にはまだ幼かったからではないだろうか。
1446年、ヴァシーリイ2世に反抗したドミートリイ・シェミャーカと、ユーリエヴィチ兄弟は協定を結ぶ(どちらから接近したのか)。ひとりでも味方を確保したいドミートリイ・シェミャーカが大幅に譲歩したため、ユーリエヴィチ兄弟は旧ニジェゴロド=スーズダリ大公領を返還され、あまつさえキプチャク・ハーンとの直接的外交関係を復活させることが認められた。事実上ニジェゴロド=スーズダリ大公領の独立が認められたわけである。
しかし早くもその年のうちにヴァシーリイ2世はドミートリイ・シェミャーカを追ってモスクワを奪回。ドミートリイ・シェミャーカはその後もヴァシーリイ2世に反抗して策動を繰り返すが、1453年に死去。
ユーリエヴィチ兄弟も、ヴァシーリイ2世に屈服することを余儀なくされた。
ヴァシーリイ・ユーリエヴィチはこの頃死んだものと考えられている。