イヴァン・ペトローヴィチ・シュイスキイ
Иван Петрович Шуйский
公 князь
ボヤーリン боярин (1574-)
生:?
没:1588.11.16/11.26−カルゴーポリ
父:ピョートル・イヴァーノヴィチ・シュイスキイ公 (イヴァン・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ公)
母:?
結婚:?
子:?
第21世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。ロシア貴族。
1560年代から活躍。1566年の全国会議ではリヴォニア戦争賛成の立場で論陣を張った。1572年にはクリム・タタールの襲来からモスクワを護る戦に従軍。
プスコーフ総督(1573、77、80-84、85-86)。特に1581年から82年のプスコーフ防衛戦の英雄として著名。
1584年、死に臨んだイヴァン雷帝から、後継者フョードル1世を託された。
フョードル1世は精神薄弱であったとも言われ、少なくとも政治的な能力も意欲も持っておらず、イヴァン・ペトローヴィチを筆頭にニキータ・ザハーリイン、イヴァン・ムスティスラーフスキイ公、ボグダン・ベリスキイ、ボリース・ゴドゥノーフの5名が事実上の摂政会議を構成して政治の実権を握った。
ニキータ・ザハーリインはフョードル1世の叔父であったが、早くに病に倒れた。門地からしてもイヴァン・ペトローヴィチが5人の摂政たちの筆頭に位置した。そのため、フョードル1世の義兄であるボリース・ゴドゥノーフと鋭く対立。イヴァン・ペトローヴィチはイヴァン・ムスティスラーフスキイ公と結んで、フョードルと妃イリーナ(ボリースの妹)との間に子供がないことを口実に、イリーナの離婚を画策。イヴァン・ムスティスラーフスキイ公の娘ナターリヤをフョードルと結婚させようとする。しかしフョードル自身がこれに反対。このためイヴァン・ペトローヴィチはフョードル1世の信頼を失い、権力闘争に敗北することになった。
1585年、イヴァン・ムスティスラーフスキイ公が失脚し、翌86年、イヴァン・ペトローヴィチも一族とともにモスクワから追放される。