リューリク家人名録

ドミートリー・コンスタンティーノヴィチ

Дмитрий Константинович

スーズダリ公 князь Суздальский (1359-83)
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский (1360-63)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1360-63)
ニージュニー・ノーヴゴロド公 князь Нижегородский (1365-83)

生:1323/24
没:1383.06/07.05−ニージュニー・ノーヴゴロド

父:スーズダリ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチスーズダリ公ヴァシーリー・アンドレーエヴィチ
母:?

結婚①:
  & アンナ

結婚②:
  & ヴァシリーサ公女 (ロストーフ=ボリソグレーブスキー公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ヴァシリーサ・コンスタンティーノヴナと
1ヴァシーリー-1403
2イヴァン-1377
3セミョーン-1402
4エヴドキーヤ1353-1407ドミートリー・ドンスコーイ1350-89モスクワ大公

第14世代。モノマーシチ(スーズダリ系)。洗礼名フォマー(ただしドミートリー自体がキリスト教徒としての洗礼名であったとも考えられる)。コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの次男。

 生年は明確ではないが、一般的に1322年、23年、24年などとされる。

 1359年頃、兄アンドレイが分領の主都をスーズダリからニージュニー・ノーヴゴロドに移転。ドミートリー・コンスタンティーノヴィチがスーズダリを与えられる。
 もっとも異説もあって、1355年の父の死にあわせて遺領を分割した際、スーズダリをもらったともされる。すでに父がスーズダリからニージュニー・ノーヴゴロドに遷都していたとも言われる。いずれにせよ、中心的な分領は兄が保持し、ドミートリーにはそれに次ぐ分領が与えられたということである。

 1359年、ヴラディーミル大公モスクワ公イヴァン2世赤公が死去。
 遺児ドミートリー・ドンスコーイはまだ幼く、大公位は事実上空位となった。しかし年長権を主張できる兄アンドレイ・コンスタンティーノヴィチは自ら大公位を望まず。これに対してドミートリー・コンスタンティーノヴィチは1360年、自らサライに赴き、ナウルーズ・ハーンから大公位の認可状をもらった。
 伯父のアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチヴラディーミル大公だったとする文献もあるが、それを除けば、モスクワ系でもトヴェーリ系でもないヴラディーミル大公は1304年以来。スーズダリ系からは、曾祖父のアンドレイ・ヤロスラーヴィチ以来である。これまで父がヴラディーミル大公でなかったヴラディーミル大公ユーリー・ダニイーロヴィチだけ。ヴラディーミル大公にはヴラディーミル大公の子だけがなれるという慣習が確立していた。その意味で、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチの大公位就任は極めて異例の事態である。
 これには、トヴェーリ系のカーシン公ヴァシーリー・ミハイロヴィチと、ホルム公フセーヴォロド & ミクーリン公ミハイールのアレクサンドロヴィチ兄弟が、トヴェーリ大公位を巡って骨肉の争いを繰り広げていてヴラディーミル大公位どころではなかったことが大きい。なお、ロストーフ系とヤロスラーヴリ系の諸公はすでにモスクワ公に従属しており、おそらくヴラディーミル大公候補としては端から圏外だったろう。
 ルーシに帰還すると、自らの大公位を強化するため、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはヴラディーミルに居住。

 しかしモスクワ貴族たちは、自分たちの公ドミートリー・ドンスコーイの権利を簡単に手放そうとしなかった。1362年、かれらはドミートリー・ドンスコーイ、弟イヴァン小公、従兄弟ヴラディーミル勇敢公を連れてサライへ(いずれもまだローティーン)。
 ドミートリー・コンスタンティーノヴィチの大公位を承認したナウルーズ・ハーンはすでに殺され、後を継いだ(?)ムラド・ハーンはドミートリー・ドンスコーイに認可状を与えた。
 モスクワ貴族はそのままヴラディーミルに侵攻。ドミートリー・コンスタンティーノヴィチは、スーズダリに逃亡した。

 当時キプチャク・ハーン国は分裂しており、ムラドと対立するアブドゥル・ハーンは使者をモスクワに派遣。モスクワ貴族はこれを丁重に迎え入れた。
 これに怒ったムラドは大公位の認可状をドミートリー・コンスタンティーノヴィチに与える。ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはヴラディーミルに戻るが、再びモスクワ軍の侵攻を受けてスーズダリに帰還した。
 モスクワ軍はこれを追ってスーズダリを攻囲。周辺を攻略し、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはドミートリー・ドンスコーイの宗主権を認めることを余儀なくされた。

 1365年、兄アンドレイ・コンスタンティーノヴィチが死去。ニージュニー・ノーヴゴロドを弟ボリース・コンスタンティーノヴィチが奪う。ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはドミートリー・ドンスコーイに支援を要請。ドミートリー・ドンスコーイは府主教アレクシーに仲介を要請し、かつ軍を派遣。この時ニージュニー・ノーヴゴロドに派遣されたのは聖セールギー・ラードネジュスキー。
 ドミートリー・コンスタンティーノヴィチもモスクワ軍とともにニージュニー・ノーヴゴロドに迫り、ボリース・コンスタンティーノヴィチは屈服。ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはニージュニー・ノーヴゴロドを確保し、ボリース・コンスタンティーノヴィチにはゴロデーツ領有を認めた。以後、ドミートリーとボリースの兄弟は協調しながら異民族対策にあたった。
 なお、スーズダリはヴラディーミルの近郊にあるが、ニージュニー・ノーヴゴロドはそのはるか東方に位置している(単純に言って、モスクワとニージュニー・ノーヴゴロドの中間にスーズダリが位置している)。ゴロデーツはニージュニー・ノーヴゴロドのすぐ近くにある。この地理的位置、あるいは歴史的帰属関係(ニージュニー・ノーヴゴロドはかつてはゴロデーツ公領だった)を考えれば、ゴロデーツ公であるボリース・コンスタンティーノヴィチがニージュニー・ノーヴゴロド領有を主張してもおかしくない。とはいえ、現にスーズダリ公領全体の中心都市となっているニージュニー・ノーヴゴロドを、兄であるドミートリー・コンスタンティーノヴィチが弟に譲れるはずもない。
 これ以降、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはニージュニー・ノーヴゴロドに住んだようだが、遠く離れたスーズダリには代官を派遣したのだろうか(長男ヴァシーリー・キルデャーパに委ねたとする文献もある)。

 なお、アンドレイ・コンスタンティーノヴィチの死に際してドミートリー・コンスタンティーノヴィチはヴァシーリー・キルデャーパをサライに派遣していたが、ハーンはニージュニー・ノーヴゴロド公位だけではなくヴラディーミル大公位も認める認可状が与えられた。しかしドミートリー・コンスタンティーノヴィチはこれを拒絶している。
 すでにドミートリー・コンスタンティーノヴィチはドミートリー・ドンスコーイとの友好協調路線に政策を転換しており、1366年には娘エヴドキーヤドミートリー・ドンスコーイに与えて関係を強化した。以後、タタール絡みの場合を除いて、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはドミートリー・ドンスコーイの忠実な同盟者となった。

 ニージュニー・ノーヴゴロドはウラル系諸民族やタタールとの最前線にあたり、故に、主に1370年以降、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはかれらとの激しい戦いに忙殺された。

 1370年、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはドミートリー・ドンスコーイの支援も得て、長男ヴァシーリー・キルデャーパと弟ボリース・コンスタンティーノヴィチをヴォルガ・ブルガールに派遣。アサン・ハーンを追放し、サルターンをハーンとする。

 1374/75年、ママイがタタール軍をニージュニー・ノーヴゴロドに派遣。ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはこれを撃退する。

 1375年、ドミートリー・ドンスコーイのトヴェーリ遠征に従軍。

 ヴォルガ・ブルガール情勢は依然として落ち着かず、ドミートリー・コンスタンティーノヴィチは1376年にもモスクワ軍の支援も得て遠征。アサン・ハーンとアフメト・スルターンを屈服させた。

 1377年、ニージュニー・ノーヴゴロドにてラヴレンティー年代記が成立。

 1377年、ハーンの息子アラブ・シャー率いるタタール軍がリャザニとニージュニー・ノーヴゴロドを蹂躙。ドミートリー・コンスタンティーノヴィチはスーズダリに逃亡したが、息子イヴァンを亡くした。
 この混乱に付け込んでさらにモルドヴァー人がニージュニー・ノーヴゴロドに侵攻。これはボリース・コンスタンティーノヴィチが撃退した。
 1378年には息子セミョーンボリース・コンスタンティーノヴィチを報復としてモルドヴァー人遠征に派遣した。

 1378年、タタール軍がニージュニー・ノーヴゴロドに来襲。

 1380年、クリコーヴォの戦いには従軍せず、逆にトクタミシュの使節を迎え入れる。1382年のトクタミシュによるモスクワ遠征には息子たちを従軍させた。

 死に際して修道士に(修道名フョードル)。ニージュニー・ノーヴゴロドに埋葬される。

 なお、特段の添え名は知られていないが、時に末弟ドミートリー・ノーゴティと区別するために «ボリショーイ»(大きな)などと記されていることがある。この頃は、同名の兄弟を区別する添え名としては、兄に «ボリショーイ»、弟に «メニショーイ»(小さな)が一般的だった。

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