リューリク家人名録

ユーリー・スヴャトスラーヴィチ

Юрий Святославич

スモレンスク大公 великий князь Смоленский (1386-92、1401-05)

生:?
没:?

父:スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチスモレンスク大公イヴァン・アレクサンドロヴィチ
母:?

結婚:
  & エレーナ公女 (リャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1フョードル
2アナスタシーヤ-1422ズヴェニーゴロド公ユーリー・ドミートリエヴィチ1374-1434モスクワ大公ドミートリー・ドンスコーイ

第17世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 最後のスモレンスク大公

 スヴャトスラーヴィチ兄弟の生年は不明だが、ユーリー・スヴャトスラーヴィチの生年を1355年頃としている文献がある。根拠は不明ながら、種々考え合わせてみると、妥当なところだろう。
 問題はグレーブ・スヴャトスラーヴィチとの長幼の順だが、どちらが兄でどちらが弟かは不明。

 1386年、リトアニアの支配するムスティスラーヴリにスモレンスク軍が出陣。これには父とともにユーリーとグレーブの兄弟も出陣していた。
 しかしムスティスラーヴリを攻囲するも陥とせず。スモレンスク軍は、救援に駆け付けたリトアニア軍に大敗を喫する。父は戦死し、スヴャトスラーヴィチ兄弟は捕虜となった。
 さらに東進したリトアニア軍はスモレンスクを陥とし、リトアニア軍を率いていたヴィタウタスはユーリー・スヴャトスラーヴィチをスモレンスク大公とした(妻が故リトアニア大公アルギルダスの姪?だったからか)。スモレンスクは事実上リトアニアの属国となった。

 しかしスモレンスク市民は、リトアニアの属国の地位に甘んじることができなかった。グレーブ・スヴャトスラーヴィチも、自ら大公位を望んでいた。これらの不満が爆発し、1392年、ユーリー・スヴャトスラーヴィチはスモレンスク市民に追われ、リャザニの義父オレーグ・イヴァーノヴィチのもとに逃亡した。グレーブ・スヴャトスラーヴィチヴィタウタスの承認を得て、スモレンスク大公に就任した。
 以後、ユーリー・スヴャトスラーヴィチは、オレーグ・イヴァーノヴィチの支援を受けてスモレンスク大公位奪回に向けて策動する。

 内紛を収拾するとの名目で、リトアニア大公ヴィタウタスは1395年、グレーブ・スヴャトスラーヴィチを捕らえてスモレンスクを占領し、スモレンスクはリトアニアに併合された。

 1399年、ヴォールスクラ河畔の戦いでリトアニア軍がキプチャク・ハーン軍に大敗を喫すると、ヴィタウタスの権勢も一時的に弱体化。リトアニア大公位を狙う従兄弟シュヴィトリガイラがリヴォニア騎士団と手を結び、モスクワ大公ヴァシーリー1世もノーヴゴロドとの対立にからんでヴィタウタスと対立した(当時ノーヴゴロド公シュヴィトリガイラの兄レングヴェニス)。
 この混乱に乗じてスモレンスク市民はリトアニアの支配から脱しようと、ユーリー・スヴャトスラーヴィチを招聘。
 1401年、ユーリー・スヴャトスラーヴィチはオレーグ・イヴァーノヴィチとともにスモレンスクに進軍。スモレンスクにはヴィタウタスの代官ロマーン・ミハイロヴィチも、またリトアニア派の市民もいたが、リャザニ軍を前に屈服。ユーリー・スヴャトスラーヴィチはスモレンスク大公に返り咲き、スモレンスクの独立を回復した。

 スモレンスク大公となったユーリー・スヴャトスラーヴィチはリトアニア派のボヤーリンや代官ロマーン・ミハイロヴィチを虐殺したが、それでもこの年、ヴィタウタスがスモレンスクに侵攻してきた時には、多くの市民がリトアニア軍に呼応して、武器を取ってユーリー・スヴャトスラーヴィチに対して立ち上がった。ユーリー・スヴャトスラーヴィチは蜂起を鎮圧し、リトアニア軍の攻囲も耐え抜いて、結局はヴィタウタスに講和を余儀なくさせている。

 しかしすでに1400年にポドーリエを与えてシュヴィトリガイラを宥和したヴィタウタスは、積極的にスモレンスク領に侵攻。1403年にはヴャージマが陥落。そして1404年、リヴォニア騎士団と講和したヴィタウタスは、再びスモレンスクを攻囲した。
 この時もユーリー・スヴャトスラーヴィチは耐え抜いたものの、援軍の必要性を痛感し、自らモスクワに赴いてモスクワ大公ヴァシーリー1世の支援を取り付けた。
 この間、スモレンスクでは親リトアニア派ボヤーリンがヴィタウタスと通牒。ユーリー・スヴャトスラーヴィチがモスクワ軍を率いて戻る前にスモレンスクは再びヴィタウタスによって占領された。これにより、スモレンスクは最終的にリトアニア領となった。

 ユーリー・スヴャトスラーヴィチはノーヴゴロドに亡命。1406年からモスクワ大公ヴァシーリー1世に仕え、トルジョークの代官に任命された。
 トルジョークには、同じく分領を失ったスモレンスク系のヴャージマ公セミョーン・ムスティスラーヴィチ(? ミハイロヴィチ?)も亡命してきていた。ユーリー・スヴャトスラーヴィチはかれと喧嘩してこれを殺す。原因はユーリー・スヴャトスラーヴィチがヴャージマ公の妻に横恋慕したためで、夫を殺し、未亡人を力ずくで手に入れたという。
 キプチャク・ハーンのもとに逃亡。当地にて客死した。ただしはっきりはわからず、最後にはリャザニで、己の罪を悔やみながら、隠者ピョートルのもとで暮らしたとする文献もある。

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