リューリク家人名録

ヤロポルク・ロマーノヴィチ

Ярополк Романович

スモレンスク公 князь Смоленский (1172-74)

生:?
没:?

父:スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ
母:マリーヤ (ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
?ムスティスラーフ

第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 ロマーン・ロスティスラーヴィチの長男とされているが、生年がはっきりわかっているわけではない。とはいえ、弟とされるムスティスラーフ老公より年代記に登場した年代が早いことを考えると、定説を疑う理由はない。
 とすると、両親の結婚が1149年頃とされていることから、ヤロポルク・ロマーノヴィチの生年も1150年代初頭と考えていいだろう。

 1172年、キエフ大公となった父によりスモレンスクを委ねられる(父がキエフ大公となった年は文献によって異なる)。父には弟たちがいたが、こぞって南ルーシにいたため、年少のヤロポルク・ロマーノヴィチに任されたのだろう。もっとも、スモレンスク公としてのヤロポルク・ロマーノヴィチの事績については何もわかっていない。
 1174年、スモレンスク市民が蜂起。ヤロポルク・ロマーノヴィチは公位を追われ、叔父のムスティスラーフ勇敢公が公位に招かれた。まだ父も健在だったし、そこまですることもないようにも思うが、ヤロポルク・ロマーノヴィチはよほど嫌われていたものと見える。

 1177年、父に従い、対ポーロヴェツ人遠征に従軍したらしい。

 ヤロポルク・ロマーノヴィチについてはほとんど何もわかっておらず、没年どころか、1177年以降どこで何をしていたのか不明。1197年に叔父ダヴィド・ロスティスラーヴィチが死ぬと、弟と思われるムスティスラーフ老公スモレンスク公位を継いでいるので、それまでには死んでいたのだろう。

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