リューリク家人名録

スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチ

Святослав Иванович

スモレンスク大公 великий князь Смоленский (1359-86)

生:?
没:1386

父:スモレンスク大公イヴァン・アレクサンドロヴィチスモレンスク大公アレクサンドル・グレーボヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
?アグリッピーナ1350?-イヴァン・オリギムンドヴィチゴリシャンスキー/アルシェニシュキス
1グレーブ-1399スモレンスク
2ユーリー-1407スモレンスクエレーナリャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチ
?ウリヤーナ1360?-タウトヴィラス1355?-90ケーストゥティスの子
?アンナ1363?-1418ヴィタウタス偉大公1350?-1430リトアニア大公
3イヴァン
?1370?-ボリース・ミハイロヴィチ1362-95カーシン公
?アレクサンドル(ダーシュコフ)
?ヴァシーリー(クロポートキン)

第16世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 生年は不明だが、1328年頃としている文献がある。根拠はわからない。

 1359年、父の死でスモレンスク大公に。

 大公になると即座に、リトアニアに奪われていたヴォルガ流域を奪回。これに対してリトアニア大公アルギルダスも反撃し、ムスティスラーヴリを奪う。

 当時北ルーシではモスクワの台頭が著しく、ルーシに領土を拡大しつつあったリトアニアとしては、対抗馬としてトヴェーリを支援していた。スモレンスクは、トヴェーリ、モスクワへの途上に位置し、そのためリトアニアはその併合を図って積極的な拡張政策を推進していた。
 他方、モスクワでは、当時公になったばかりの幼年のドミートリー・ドンスコーイが、ヴラディーミル大公位を巡ってニージュニー・ノーヴゴロド公ドミートリー・コンスタンティーノヴィチと争っており、リトアニアとの直接対決は避けたい状況にあった。
 こうしてスヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチはドミートリー・ドンスコーイと、対リトアニア攻守同盟を結ぶ。

 1367年(68年?)、アルギルダスは、トヴェーリ大公ミハイール・アレクサンドロヴィチを支援してモスクワに侵攻。モスクワとの攻守同盟にもかかわらず、スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチはリトアニア軍の領内通過を許したのみならず、スモレンスク軍をこの遠征に従軍させた。
 これに対する報復として、1369年にモスクワ軍がスモレンスクを蹂躙。のみならず、スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチは府主教アレクシーに破門された。
 スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチは1370年にもリトアニア軍に従軍し、モスクワ侵攻。

 しかしコンスタンティノープル総主教からも異教徒への加担を非難する書簡をもらい、スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチは再びドミートリー・ドンスコーイとの協調路線に舵を切る。
 1375年、ドミートリー・ドンスコーイのトヴェーリ遠征に従軍。これにより、トヴェーリはモスクワに屈服した。

 1377年、アルギルダスが死去。後を継いだヨガイラに対して、異母兄たちや従兄弟たちが反発し、リトアニアに内紛が勃発した。これに乗じてスヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチは、ポーロツク公アンドレイ・オリゲルドヴィチヨガイラの異母兄のひとり)とも同盟してリトアニアに奪われた領土の奪回を試みるが、リトアニア軍に敗北。
 アンドレイ・オリゲルドヴィチは1379年にはモスクワに «亡命» し、1380年のクリコーヴォの戦いにも従軍している。クリコーヴォの戦いにはスモレンスク軍も参加したが、スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチ自身は従軍していない。指揮を執ったのは一族のヴャージマ公(甥のイヴァン・ヴァシーリエヴィチがこのヴャージマ公だったとする説も)。

 1385年、アンドレイ・オリゲルドヴィチがリヴォニア騎士団と同盟。ヨガイラが同君連合の交渉のためポーランドに赴いた隙を衝いて、リトアニアとの戦闘を再開する。スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチもこれに乗じた。
 1386年、リトアニアに奪われていたムスティスラーヴリを奪還するため、息子グレーブユーリーを引き連れて出陣。しかしムスティスラーヴリを攻囲するも、陥とせず。
 そうこうする間にリトアニア軍がムスティスラーヴリの救援に駆け付ける。両軍は激突するが、スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチは戦死した。ふたりの息子は捕虜となり、リトアニア軍はスモレンスクに侵攻。これを陥とし、ユーリー・スヴャトスラーヴィチスモレンスク大公とした。スモレンスクはリトアニアの属国となった。

 リトアニア大公ヴィタウタスの妻アンナについて、ブィホヴェツ年代記はスモレンスク最後の大公ユーリーの姉妹だとしている。ただしブィホヴェツ年代記は必ずしも信用がならず、のちにヴィタウタスが何度もスモレンスクと戦った際にも、ほかの年代記はかれとスモレンスクとの縁戚関係については何ひとつ述べていない。

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最終更新日 04 07 2012

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