リューリク家人名録

リューリク・ロスティスラーヴィチ

Рюрик Ростиславич

オーヴルチ公 князь Овручевский (1157?-94)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1170-71)
ベールゴロド公 князь Белгородский (1173-94)
キエフ大公 великий князь Киевский (1173、80-82、94-1202、03-05、1206、07-10)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1210-14)

生:?
没:1214−チェルニーゴフ

父:スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公ムスティスラーフ偉大公
母:?

結婚①:1163
  & ? (ポーロツクのハーン・ベルク)

結婚②:
  & アンナ公女 (トゥーロフ公ユーリー・ヤロスラーヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アンナ・ユーリエヴナと
1プレディスラーヴァ/プレツラーヴァロマーン偉大公-1205ヴォルィニ公
2アナスタシーヤグレーブ・スヴャトスラーヴィチ-1215チェルニーゴフ公
3ヤロスラーヴァスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ1176-1211(セーヴェルスキー系)
4ロスティスラーフ1172-1218ヴェルフスラーヴァフセーヴォロド大巣公
5フセスラーヴァヤロスラーフ・グレーボヴィチ(リャザニ系)
6ヴラディーミル1187-1239

第10世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。洗礼名ヴァシーリー。

 ロスティスラーヴィチ兄弟の生年、長幼の順についてはまったくはっきりしない。
 おそらく、一般的には長男とされているロマーンは、実際に最年長だったろう。生年は、その結婚の年(1148年)からすると、遅くとも1130年代後半と考えられよう。他方、ダヴィドは1140年の生まれとされている。問題は、リューリクがこの間に挟まるのか、それともダヴィドの後なのか、である。
 リューリクが年代記に初登場するのは1157年、それもオーヴルチ公としてである。一方でダヴィドの場合は1154年、父からノーヴゴロド公位を譲られたとされているのが初登場である。この扱いの差を見てみると、どう考えてもダヴィドが兄、リューリクが弟であろう。実際、1180年に長兄と思われるロマーンが死んだ時、スモレンスク公位を継いだのはダヴィドであった。
 スヴャトスラーフの文献での初登場はよくわからないが、おそらく1157年頃にノーヴゴロド公として(しかもそれ以前はトルジョーク公だったらしい)。これを見ると、リューリクはスヴャトスラーフより年少であったとしても不思議はない。
 ところが多くの文献で、リューリクはスヴャトスラーフよりも、果てはダヴィドよりも年長扱いされている。ロスティスラーヴィチ兄弟にあっては、このリューリクの位置づけが最も悩ましい部分である。

 1157年、オーヴルチ公として、父や兄弟たちとともに、キエフ大公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチのトゥーロフ遠征に従軍。

 1159年、キエフ大公となった父に派遣されて、兄ロマーンとともに、ドルツク公ローグヴォロド・ボリーソヴィチを支援してミンスク公ロスティスラーフ・グレーボヴィチと、続いてチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチを支援して前チェルニーゴフ公イジャスラーフ・ダヴィドヴィチと戦う。

 1162年、父がイジャスラーフ・ダヴィドヴィチにキエフを追われ、さらに逃げ込んだベールゴロドも攻囲されると、リューリク・ロスティスラーヴィチはトルチェスク公としてテュルク系遊牧民をも引き連れて救援に駆け付ける。
 父がキエフ大公位を奪還すると、リューリク・ロスティスラーヴィチは父の命で叔父ヴラディーミル・マーチェシチからスルーツクを奪う。

 1167年に父が死んだ後もオーヴルチ公としてとどまった。
 父の死でリューリク・ロスティスラーヴィチは、他の諸公とともにキエフ大公に従兄弟ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチを招く。
 この年、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとともにポーロヴェツ人遠征。

 しかし、父の晩年ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチとの関係はぎくしゃくしたものとなっており、代わって父の同盟者となったのがヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキーだった。この関係は、ロスティスラーヴィチ兄弟もそのまま引き継いだ。
 1169年、ロスティスラーヴィチ兄弟は挙ってアンドレイ・ボゴリューブスキーのキエフ占領を支援した。
 なお、リューリク・ロスティスラーヴィチはこの時褒賞としてオーヴルチをもらったとする文献がある。とすると一時オーヴルチを手放していたということか。
 アンドレイ・ボゴリューブスキーはさらに、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの子ロマーン偉大公を公としていたノーヴゴロドに強要し、ロマーン偉大公を追放させる。アンドレイ・ボゴリューブスキーはその後任のノーヴゴロド公に、リューリク・ロスティスラーヴィチを据える。
 さらにアンドレイ・ボゴリューブスキーは1171年には、死んだ弟グレーブ・ユーリエヴィチに替えて、リューリク・ロスティスラーヴィチの兄ロマーン・ロスティスラーヴィチをキエフ公とする。
 おそらくこの時末弟ムスティスラーフ勇敢公ベールゴロド公となっており、父の死以来ヴィーシュゴロドを領有しているダヴィドとあわせて、ロスティスラーヴィチ兄弟がキエフ公領を制圧した。

 こうして当時ロスティスラーヴィチ兄弟はアンドレイ・ボゴリューブスキーとの蜜月状態にあり、両者は協調してキエフ・ルーシにその覇権を打ち立てた。
 リューリク・ロスティスラーヴィチもノーヴゴロド貴族と対立して一旦ノーヴゴロドを追われたが、アンドレイ・ボゴリューブスキーに泣きついて公位を取り戻してもらったりしている。

 しかしやがて、ロスティスラーヴィチ兄弟とアンドレイ・ボゴリューブスキーとの蜜月も終わりを迎える。リューリク・ロスティスラーヴィチもノーヴゴロドを追われ、オーヴルチに逃げ帰った。
 1173年、ロマーン・ロスティスラーヴィチに代わってアンドレイ・ボゴリューブスキーの弟ミハルコ・ユーリエヴィチキエフ大公となる。これに対してロスティスラーヴィチ兄弟は結束してこれを追い、リューリク・ロスティスラーヴィチがキエフ大公となる。

 しかしキエフ大公位に野心を燃やしていたのはロスティスラーヴィチ兄弟とアンドレイ・ボゴリューブスキーだけではなかった(正確にはアンドレイ・ボゴリューブスキーキエフ大公位に野心はなく、ただ南ルーシに覇権を確立したかっただけ)。ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの弟ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが相次いでキエフを占領。1175年にはアンドレイ・ボゴリューブスキーの死に乗じて兄ロマーン・ロスティスラーヴィチキエフ大公に返り咲いたこともあった。
 この間、リューリク・ロスティスラーヴィチは、キエフ大公が誰になろうと、近郊のオーヴルチを領有し続けたらしい。それはダヴィド・ロスティスラーヴィチも同様で、この辺りどちらがどこを領有していたかよくわからないが、いずれにせよ兄弟でベールゴロドとヴィーシュゴロドを領有していたらしい(末弟ムスティスラーフ勇敢公は1170年代半ばにはスモレンスクに去っている)。こうしてふたりのロスティスラーヴィチ兄弟はキエフ大公位こそ他者に譲っても、1170年代を通じてキエフ公領に大きな影響力を保持した。
 1177年にはポーロヴェツ人遠征に失敗したロマーン・ロスティスラーヴィチに代わって一時的にリューリク・ロスティスラーヴィチが大公位を占めたこともあった(すぐにスヴャトスラーフ・フセヴォローディチに奪われる)。

 1180年、ロスティスラーヴィチ兄弟の領する分領を奪おうと、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチダヴィド・ロスティスラーヴィチのヴィーシュゴロドに侵攻。ダヴィド・ロスティスラーヴィチがリューリク・ロスティスラーヴィチのベールゴロドに逃亡してくると、リューリク・ロスティスラーヴィチはダヴィド・ロスティスラーヴィチを、救援の要請にスモレンスクに派遣する。しかしまさにその時ロマーン・ロスティスラーヴィチが死去。ダヴィド・ロスティスラーヴィチはそのままスモレンスクにとどまって戻ってこなかった。
 長兄ロマーンの跡を継いでスモレンスク公となったのがリューリクではなくダヴィドであったということは、つまりダヴィドが次男でリューリクは三男だったということか。それとも、キエフに執着したリューリクがスモレンスクを弟に譲ったということなのか。のちにダヴィドが死んだ時にもスモレンスクに帰ろうともしなかった(公位は甥が継いだ)ことを考えると、次男であれ三男であれ、リューリクがスモレンスクに目もくれずキエフに固執したというのはあったろう。

 この後の推移はよくわからない。ある文献はスヴャトスラーフ・フセヴォローディチがチェルニーゴフに逃げ帰り、リューリク・ロスティスラーヴィチがキエフ大公になったとしている。とすればリューリク・ロスティスラーヴィチがダヴィド・ロスティスラーヴィチの仇を討ったのか? その従兄弟のノーヴゴロド=セーヴェルスキー公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ率いるポーロヴェツ人もリューリク・ロスティスラーヴィチは撃退した。
 当時スヴャトスラーフ・フセヴォローディチヴラディーミル=スーズダリ公フセーヴォロド大巣公とも対立しており、結局1182年、3者は和解。リューリク・ロスティスラーヴィチはスヴャトスラーフ・フセヴォローディチにキエフを返還した。
 しかしリューリク・ロスティスラーヴィチはオーヴルチ以外にベールゴロドとヴィーシュゴロドも領有し、キエフ公領の覇権を握る。このため、キエフのみを領するスヴャトスラーフ・フセヴォローディチは名のみのキエフ大公であった。

 1183年、84年と相次いで、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ等とともにポーロヴェツ人遠征。1185年にもポーロヴェツ人と戦っている。1187年にもステップに遠征。

 1183年から85年のいずれかの時期に、娘をヴラディーミル=ヴォルィンスキー公ロマーン偉大公と結婚させる。
 そのロマーン偉大公はガーリチを奪おうとして失敗し、一旦はヴラディーミル=ヴォルィンスキーを譲った弟フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチに阻まれてヴォルィニにも戻れず、1188年にリューリク・ロスティスラーヴィチのもとに逃げ込んでくる。リューリク・ロスティスラーヴィチはトルチェスクを与えると同時に、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチに圧力をかけ、ヴラディーミル=ヴォルィンスキーをロマーン偉大公に返還させた。

 1190年、ポーロヴェツ人がキエフに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチは不在で、息子のロスティスラーフがポーロヴェツ人を撃退した。
 この時スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが援軍を送らなかったことから、リューリク・ロスティスラーヴィチとスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとの関係が悪化。事態は一触即発の状態にまでいたったが、結局スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが折れ、改めてリューリク・ロスティスラーヴィチ(とフセーヴォロド大巣公)の意志に従うことを確認した。

 1194年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが死去。リューリク・ロスティスラーヴィチが跡を襲ってキエフ大公となった。
 しかしこれにはフセーヴォロド大巣公の同意があったようで、北方系の年代記などはフセーヴォロド大巣公がリューリク・ロスティスラーヴィチを擁立したと記している。

 キエフ大公となったリューリク・ロスティスラーヴィチは、キエフ公領からトルチェスク、トリポーリ、コルスニ、ボグスラーフ、カーネフの5都市をロマーン偉大公に与えた。
 しかしこれにフセーヴォロド大巣公が反発。5都市がキエフ公領とステップとの境界に位置したためか、ロマーン偉大公も簡単に諦めたが、代わりの領地か金をよこすよう要求。リューリク・ロスティスラーヴィチは5都市をフセーヴォロド大巣公に与え、フセーヴォロド大巣公はトルチェスクをリューリク・ロスティスラーヴィチの子ロスティスラーフに与えた。一方でリューリク・ロスティスラーヴィチはロマーン偉大公に代わりの領地も金も与えなかった。
 ロマーン偉大公は当然激怒。トルチェスクを息子に与えたいがためにリューリク・ロスティスラーヴィチがフセーヴォロド大巣公と演じた狂言ではないかと疑い、チェルニーゴフ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチと同盟。

11941202
キエフリューリク・ロスティスラーヴィチリューリク・ロスティスラーヴィチ
スモレンスク ダヴィド・ロスティスラーヴィチ(兄) ムスティスラーフ老公(甥)
トゥーロフ=ピンスクグレーブ・ユーリエヴィチ(義弟)イヴァン・ユーリエヴィチ(義弟)
セーヴェルスカヤ・ゼムリャーヤロスラーフ・フセヴォローディチフセーヴォロド真紅公
ヴォルィニロマーン偉大公ロマーン偉大公
ガーリチヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ
ヴラディーミルフセーヴォロド大巣公フセーヴォロド大巣公
ムーロム ヴラディーミル・ユーリエヴィチ ヴラディーミル・ユーリエヴィチ
リャザニ ロマーン・グレーボヴィチ ロマーン・グレーボヴィチ
ノーヴゴロド ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ(義弟) スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ(子)
ペレヤスラーヴリ ヤロスラーフ赤公(甥) ヤロスラーフ・フセヴォローディチ(子)
ポーロツクヴォロダーリヴォロダーリ

ポーロツクは、もはやルーシ情勢とは完全に無縁な存在。トゥーロフはあまりに弱小で、情報量が極度に少ない。
 フセーヴォロド大巣公は、ムーロムとリャザニを事実上属国とし、ペレヤスラーヴリとノーヴゴロドに親族を送り込んで、これらも事実上属国としていた。これほどの大勢力であるだけに、その動向が南ルーシの情勢にも大きな影響を与えたのはまず間違いなかろう。とはいえ、ヴラディーミル系の年代記が言うほどフセーヴォロド大巣公の影響力が大きかったとも思えない。北ルーシならばいざ知らず、南ルーシではフセーヴォロド大巣公のほかに、リューリク・ロスティスラーヴィチ、ロマーン偉大公(特に1199年以降)、チェルニーゴフ公が、つまりはトゥーロフ公ペレヤスラーヴリ公以外が情勢を大きく左右する力を持っていた。

 1196年、ロマーン偉大公キエフ公領を蹂躙。報復としてリューリク・ロスティスラーヴィチはガーリチ公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチを使嗾してヴォルィニに侵攻させると同時に、息子ロスティスラーフもヴォルィニに派遣した。
 これに対してロマーン偉大公と同盟するヤロスラーフ・フセヴォローディチが軍を興し、リューリク・ロスティスラーヴィチがフセーヴォロド大巣公とともにチェルニーゴフに侵攻。ところがフセーヴォロド大巣公ヤロスラーフ・フセヴォローディチと勝手に講和を結んでしまい、遠征は失敗に終わった。
 これを契機にリューリク・ロスティスラーヴィチとフセーヴォロド大巣公の関係は悪化し、フセーヴォロド大巣公ロマーン偉大公とが手を結ぶことになった。フセーヴォロド大巣公はヴィーシュゴロドにヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチを送り込み、リューリク・ロスティスラーヴィチの覇権の一角が崩れた。
 1199年、ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチの死でロマーン偉大公がガーリチを征服。1201年にはフセーヴォロド大巣公が息子ヤロスラーフ・フセヴォローディチペレヤスラーヴリ公とし、リューリク・ロスティスラーヴィチに対する圧迫が強まった。
 これに対してリューリク・ロスティスラーヴィチは、チェルニーゴフのスヴャトスラーヴィチ一族と手を結んだ。

 1202年、リューリク・ロスティスラーヴィチはチェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公と同盟してガーリチ侵攻を企てるが、逆にロマーン偉大公が先手を打ってキエフに侵攻。年代記によれば、全ルーシがリューリク・ロスティスラーヴィチに反して立ち上がったという。ヴラディーミル・マーチェシチの息子たちが見棄て、テュルク系遊牧民がロマーン偉大公の側につき、ついにはキエフ公領の諸都市も叛乱を起こした。
 リューリク・ロスティスラーヴィチはオーヴルチへ、フセーヴォロド真紅公はチェルニーゴフに逃亡し、ロマーン偉大公フセーヴォロド大巣公の合意の下、従兄弟のルーツク公イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチキエフ大公とした。

 1203年、リューリク・ロスティスラーヴィチは再びフセーヴォロド真紅公と同盟して軍を興し、ポーロヴェツ人を雇い入れてキエフを奪還した。しかしポーロヴェツ人に払う金がなかったため、キエフの略奪を許す(裏切ったキエフ市民に対する復讐の意味もあったのか)。
 この後、リューリク・ロスティスラーヴィチはオーヴルチへ。荒廃したキエフには住めたものではなかったし、ロマーン偉大公の反撃を怖れたというのもあったのだろう。
 しかしロマーン偉大公はオーヴルチに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチは降伏し、フセーヴォロド大巣公の合意の下、ロマーン偉大公によりキエフ大公として認められた。

 この年、リューリク・ロスティスラーヴィチはロマーン偉大公とともにポーロヴェツ人遠征。しかし遠征から帰還すると両者の対立が再燃。リューリク・ロスティスラーヴィチはロマーン偉大公に捕らえられ、妻と娘共々強制的に修道士にさせられた。息子のロスティスラーフヴラディーミルはガーリチに連行され、拘禁された。
 その後フセーヴォロド大巣公の介入で息子たちは釈放され、ロスティスラーフ・リューリコヴィチフセーヴォロド大巣公の娘婿)がキエフ大公となった。

 1205年、ロマーン偉大公が死去。リューリク・ロスティスラーヴィチはすぐさま修道士生活を棄て、長男に代わってキエフ大公となった。ちなみにこの時妻も還俗させようとしたが、妻はそのまま修道女にとどまったという。
 ロマーン偉大公の遺児はまだ幼いダニイール・ロマーノヴィチであり、リューリク・ロスティスラーヴィチはフセーヴォロド真紅公と同盟し、それぞれスモレンスク系一族とスヴャトスラーヴィチ一族を率いてガーリチに侵攻。しかしガーリチはハンガリー軍が防御しており、これを陥とすことはできなかった。
 1206年、両者は再びガーリチに侵攻。今回はダニイール・ロマーノヴィチを追い、さらにハンガリーが呼び寄せたヤロスラーフフセーヴォロド大巣公の子)も追って、ガーリチの征服に成功する。のみならず、さらにヴラディーミル=ヴォルィンスキーをも獲得した。
 しかし果実を得たのはスヴャトスラーヴィチのイーゴレヴィチ兄弟で、リューリク・ロスティスラーヴィチ等スモレンスク系一族は何ら得るところがなかった。それどころか、勢いに乗ったフセーヴォロド真紅公はさらにキエフに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチはオーヴルチに、ロスティスラーフ・リューリコヴィチはヴィーシュゴロドに、甥ムスティスラーフ老公はベールゴロドに逃亡した。
 リューリク・ロスティスラーヴィチはその年のうちにスモレンスク一族の力を結集してキエフとペレヤスラーヴリを奪回。自らはキエフ大公となり、次男ヴラディーミル・リューリコヴィチペレヤスラーヴリ公とした。
 フセーヴォロド真紅公はこの年さらにもう一度キエフに侵攻するが、リューリク・ロスティスラーヴィチはこれを撃退した。

12061210
キエフリューリク・ロスティスラーヴィチフセーヴォロド真紅公
スモレンスク ムスティスラーフ老公(甥)ムスティスラーフ老公
トゥーロフ=ピンスクイヴァン・ユーリエヴィチ(義弟)
セーヴェルスカヤ・ゼムリャーフセーヴォロド真紅公リューリク・ロスティスラーヴィチ?
ヴォルィニ イーゴレヴィチ兄弟(従兄弟)アレクサンドル・フセヴォローディチ
ガーリチイーゴレヴィチ兄弟
ヴラディーミルフセーヴォロド大巣公フセーヴォロド大巣公
ムーロム ダヴィド・ユーリエヴィチ ダヴィド・ユーリエヴィチ
リャザニ ロマーン・グレーボヴィチ ヤロスラーフ・フセヴォローディチ(子)
ノーヴゴロド コンスタンティーン賢公(子)ムスティスラーフ幸運公
ペレヤスラーヴリヴラディーミル・リューリコヴィチヴラディーミル・リューリコヴィチ
ポーロツクヴォロダーリヴォロダーリ

 1207年、フセーヴォロド真紅公トゥーロフ公イヴァン・ユーリエヴィチガーリチ公ヴラディーミル・イーゴレヴィチと共同でキエフに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチはオーヴルチに逃亡し、キエフを占領したフセーヴォロド真紅公はトリポーリ、ベールゴロド、トルチェスクも奪った。
 1208年(07年?)、リューリク・ロスティスラーヴィチは再びキエフからフセーヴォロド真紅公を追い、大公位を奪取。

 1210年、フセーヴォロド真紅公フセーヴォロド大巣公の合意に基づき、フセーヴォロド真紅公キエフ大公となる。リューリク・ロスティスラーヴィチは、代わりにチェルニーゴフを受け取った。これは1094年以来、スヴャトスラーヴィチ一族以外でチェルニーゴフ公となった最初で最後の例である。
 ただしこれには異説もあり、リューリク・ロスティスラーヴィチはフセーヴォロド真紅公の捕虜となり、チェルニーゴフに連行されたとする文献がある。当時はスヴャトスラーヴィチ一族も掃いて捨てるほどいて、一族外の人間を公に据えたりしたら悶着が持ち上がるのは必至で、そう考えるとこちらの説の方があり得るようにも思える。

 年代記は、当初同盟者でありのち仇敵となったフセーヴォロド真紅公を、ポーロヴェツ人をルーシに引き入れた悪人としているのに対して、リューリク・ロスティスラーヴィチのことは敬虔で慎み深く、高潔な人物であると評している。もっともタティーシチェフは何に依ったか、酔っ払いの怠け者とこき下ろしている。

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最終更新日 02 02 2012

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