ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチ «フラーブルィー»
Мстислав Ростиславич "Храбрый"
ベールゴロド公 князь Белгородский (1161、71-73)
スモレンスク公 князь Смоленский (1175-77)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1179-80)
生:?
没:1180.07.11−ノーヴゴロド
父:スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ (キエフ大公ムスティスラーフ偉大公)
母:?
結婚①:
& フェオドーシヤ公女 (リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ)
結婚②:
& ?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ムスティスラーフ | -1228 | トローペツ | マリーヤ | コテャン・ハーン | |
2 | ヴラディーミル | プスコーフ | ? | (リガ司教アルベルトの姪) | ||
3 | ダヴィド | -1214 | トローペツ |
第10世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。洗礼名フョードル?
ロスティスラーヴィチ兄弟(ロマーン、リューリク、ダヴィド、スヴャトスラーフ、ムスティスラーフ)の生年と長幼の順についてはわからない部分が多い。しかし一般的にムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは末弟とされていて、おそらくそれは正しいだろう。
生年については何も言えないが、ダヴィドが1140年とされているようなので、それ以降ということだけは確かだろう。
ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチがベールゴロド公となったについては、1162年頃に父から、とする説と、1171年にキエフ大公となった長兄ロマーン・ロスティスラーヴィチから、とする説などあってはっきりしない。
1167年、父が死去。
最晩年に父に接近したヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキーは、父の死後もロスティスラーヴィチ兄弟との協調路線を維持した。それもあって、1169年、父の死後従兄弟ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに奪われたキエフ大公位を奪回せんと、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチはアンドレイ・ボゴリューブスキーの軍に同道してキエフ攻略。
ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチは1170年に死に、アンドレイ・ボゴリューブスキーがキエフ大公に据えたグレーブ・ユーリエヴィチも1171年には死去。ロスティスラーヴィチ兄弟は叔父ヴラディーミル・マーチェシチをキエフ大公とする。しかしヴラディーミル・マーチェシチはアンドレイ・ボゴリューブスキーの気に入らず、代わって長兄ロマーン・ロスティスラーヴィチがキエフ大公となった。
しかしロスティスラーヴィチ兄弟とアンドレイ・ボゴリューブスキーとの蜜月状態は長くは続かなかった。破綻のきっかけは、グレーブ・ユーリエヴィチの死にロスティスラーヴィチ兄弟がかかわっているとアンドレイ・ボゴリューブスキーが聞き込んだことにあると年代記は伝えている。
1173年、アンドレイ・ボゴリューブスキーはロスティスラーヴィチ兄弟に南ルーシを去るよう要求。ロマーンはスモレンスクに戻るが、リューリク、ダヴィド、ムスティスラーフの3人はこれを拒否。キエフを奪い、フセーヴォロド・ユーリエヴィチ(アンドレイ・ボゴリューブスキーの弟)を捕らえ、リューリク・ロスティスラーヴィチがキエフ大公となった。
これに怒ったアンドレイ・ボゴリューブスキーが、再度ロスティスラーヴィチ兄弟に南ルーシを去るよう要求すると、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチはこう答えたという。
мы до сих пор почитали тебя, как отца, по любви, но если ты прислал к нам с такими речами, не как к князю, но как к подручнику и простому человеку, то делай, что замыслил, а Бог нас рассудит.
われらはこれまで御身を父のごとく情愛をもって敬ってきたが、もしわれらにこのような、公ではなく臣下や一般庶民に対するような言葉を送ってよこすなら、思うところをなすがよい。神がわれらを裁くだろう。
アンドレイ・ボゴリューブスキーは5万にのぼる軍を召集し、息子ユーリーを司令官に南ルーシに派遣した。ちなみにこの時アンドレイ・ボゴリューブスキーは、「リューリクとダヴィドは我がオーッチナ(=ヴォーッチナ、父祖の地)から追え。だがムスティスラーフは、何もせずに我がもとに連れてこい」と命じたという。よほどムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチの返事が腹に据えかねたと見える。
この大軍には、さらに20人以上とも言われる多数の諸公が合流し、ロスティスラーヴィチ兄弟はキエフを棄てて分領に退却。リューリクはベールゴロドに、ダヴィドとムスティスラーフはヴィーシュゴロドに籠城した。チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチはヴィーシュゴロドにフセーヴォロド・ユーリエヴィチ、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ等を派遣。ダヴィドとムスティスラーフは20週にわたって攻囲を耐え抜いた。
ここでルーツク公ヤロスラーフ・イズャスラーヴィチが、自らキエフ大公位を獲得しようと、ヴォルィニ軍を率いて登場。同じくキエフ大公位を目指すスヴャトスラーフ・フセヴォローディチと対抗するため、ロスティスラーヴィチ兄弟と交渉を開始した(ちなみにおそらくアンドレイ・ボゴリューブスキーもロスティスラーヴィチ兄弟も、自分自身がキエフ大公になることにはさほどこだわらなかった)。
これによりスーズダリ・チェルニーゴフ連合軍は瓦解し、スモレンスク・ヴォルィニ連合がキエフに権力を確立した。キエフ大公にはヤロスラーフ・イズャスラーヴィチが就任するが、すぐにスヴャトスラーフ・フセヴォローディチがかれを追った。さらにその後、長兄ロマーン・ロスティスラーヴィチが復帰。
ロマーン・ロスティスラーヴィチはスモレンスクを去るにあたり、長男ヤロポルク・ロマーノヴィチを公として残していた。しかしかれにはスモレンスク市民が反発した。1174年、スモレンスク市民はヤロポルク・ロマーノヴィチを追放。ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチを公として招いた。
ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは、以後再び南ルーシに戻ることはなかった。
ちょうどこの頃、北東ルーシでは死んだアンドレイ・ボゴリューブスキーの跡目を巡り、甥のロスティスラーヴィチ兄弟と弟のユーリエヴィチ兄弟が争っていた。ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチはロスティスラーヴィチ兄弟を支持。積極的に軍事介入したわけではないようだが、ムスティスラーフ無眼公(ロスティスラーヴィチ兄弟の兄)がフセーヴォロド大巣公(ユーリエヴィチ兄弟の弟)の捕虜となった時には、その釈放に尽力している。その後釈放されて北東ルーシから追われたロスティスラーヴィチ兄弟を、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチはスモレンスクに迎え入れている。
1177年(76年?)、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチにキエフを追われたロマーン・ロスティスラーヴィチを救援。しかしロマーン・ロスティスラーヴィチはキエフを奪回することができず、スモレンスクに帰還。ムスティスラーフ・ロマーノヴィチはスモレンスクを兄に譲り、自らはノーヴゴロドに赴いた。
もっとも、一旦トローペツに退いたという説もある。それによればノーヴゴロド公となったのは1178年だとされる。
いずれにせよ、ムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチがノーヴゴロド公となったのは、ノーヴゴロド民会の要請によるものだった。ところがムスティスラーフ・ロスティスラーヴィチは当初渋っていたらしい。自らの従士団の要求で、ようやく公位就任を受諾したという。
ノーヴゴロド公となった直後、チューディ人の地に遠征。多大の捕虜と家畜を獲得して凱旋した。しかしノーヴゴロドに帰還するとすぐに病の床につき、そのまま死んだ。ノーヴゴロドの聖ソフィヤ大聖堂に葬られた。
なお没年については、イパーティー年代記は1178年、ラヴレンティー年代記やノーヴゴロド年代記は1180年としている。
チューディ人は、エストニアから北西ロシアにかけて住んでいたフィン系部族。かつてはスラヴ人とともにリューリクをノーヴゴロドに招聘した。
添え名の «フラーブルィー» は「勇敢な」という意味。まったくの偶然だが、150年前にも同じく «ムスティスラーフ勇敢公» と呼ばれたムスティスラーフ・ヴラディーミロヴィチがいた。