コンスタンティーン・ロスティスラーヴィチ
Константин Ростиславич
公 князь
生:?
没:?
父:ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ (スモレンスク公ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ)
母:?
結婚:
& エヴドキーヤ公女 (アレクサンドル・ネフスキー)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ユーリー |
第13世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
1262年、ノーヴゴロド公ドミートリー・アレクサンドロヴィチ、リトアニア人、ポーロツク軍とともにリヴォニア遠征。ユーリエフ(現タルトゥ、エストニア)を占領する。
1268年にも言及されているが、おそらくこの2度が、コンスタンティーン・ロスティスラーヴィチの名が年代記に登場するすべて。
コンスタンティーン・ロスティスラーヴィチの妻はドミートリー・アレクサンドロヴィチの妹(?)なので、おそらく1262年頃に結婚したのではないかと想像される。兄(?)フョードル黒公も1261年に結婚している。兄弟の年齢差がどの程度であったかはまったく不明だが、同時期に結婚しただろう、というのは妥当な想像であろう。
1261年に結婚し1299年に死んだフョードル黒公の生年は1230年頃、あるいは1230年代だったのではないだろうか。これまた想像でしかないが、妥当性のある想像だと思う。そして、だとするならば、コンスタンティーン・ロスティスラーヴィチもまた1230年頃、あるいは1230年代に生まれたのだろう。
長兄グレープ・ロスティスラーヴィチは1249年にスモレンスク大公となっており、フョードル黒公は1260年にモジャイスクを分領としてもらったらしい。しかし次兄(?)ミハイールとコンスタンティーンのふたりについては、分領は不明。
この時期のスモレンスク系一族には、このように分領の不明な者が多い。大叔父のコンスタンティーン・ダヴィドヴィチもそうだった。