イヴァン・ドミートリエヴィチ・フセヴォロージュスキー
Иван Дмитрьевич Всеволожский
ボヤーリン боярин
生:?
没:?
父:ドミートリー・フセヴォローディチ (フセーヴォロド・グレーボヴィチ公)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
イヴァン | ||||||
エレーナ | アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ | -1426 | ラードネジュ公 | |||
? | ユーリー・アレクサンドロヴィチ | 1399-1426 | トヴェーリ大公 | |||
セミョーン |
第18世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。モスクワ大公の勤務公。
1425年にヴァシーリー1世が死ぬと、後を継いだ幼児ヴァシーリー2世のもとで、母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナ、府主教フォーティーとともに実権を握る。
ヴァシーリー2世には野心に満ちた叔父たちがいた。特に1430年にリトアニア大公ヴィタウタスと府主教フォーティーが相次いで死去したことで、ヴァシーリー2世の地位を保障し、叔父たちの暴発を抑えていた要素が消えた。
1431年、叔父たちのうちのひとり、ズヴェニーゴロド公ユーリー・ドミートリエヴィチがサライに伺候。イヴァン・ドミートリエヴィチは、ヴァシーリー2世とともにこれを追う。
サライにてイヴァン・ドミートリエヴィチは、ウル・ムハンマドを説得し、その奔走の甲斐あって、1432年にヴァシーリー2世はハーンの認可状を獲得した。
イヴァン・ドミートリエヴィチの功績は大きかったし、ヴァシーリー2世としてもかれに依存するところ大であった。おそらくそれもあったのだろう。サライにてヴァシーリー2世はイヴァン・ドミートリエヴィチに、その娘との結婚を約束した。こうしてイヴァン・ドミートリエヴィチは大公の義父となり、宮廷にて振るう絶大な権力に裏付けを得ることになるはずだった。
ところがヴァシーリー2世は、1433年にセールプホフ公女と結婚する。
この結婚は母后ソフィヤ・ヴィトフトヴナのあつらえたものらしいが、ソフィヤ・ヴィトフトヴナとしては一族の中にヴァシーリー2世の与党を確保しておきたいとの思いもあったろうし、あるいはまたこれ以上イヴァン・ドミートリエヴィチを強大化させるのはまずいとの思いもあったのかもしれない。
しかし当然これは裏目に出た。イヴァン・ドミートリエヴィチは激怒し、ユーリー・ドミートリエヴィチ側に寝返ったのである。
1433年、ユーリー・ドミートリエヴィチはモスクワに侵攻。こうしてイヴァン・ドミートリエヴィチは、新たな権力者のもとでも大きな権勢を振るうことになった。
ただし、それも長くは続かなかった。早くもその年のうちにヴァシーリー2世は盛り返し、ユーリー・ドミートリエヴィチはガーリチに帰還した。
イヴァン・ドミートリエヴィチはヴァシーリー2世に捕らえられ、目をつぶされて、所領も没収された。