リューリク家人名録

イヴァン・アレクサンドロヴィチ

Иван Александрович

スモレンスク大公 великий князь Смоленский (1313-59)

生:?
没:1359

父:スモレンスク大公アレクサンドル・グレーボヴィチスモレンスク大公グレーブ・ロスティスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1スヴャトスラーフ-1386スモレンスク
2ヴァシーリー-1397セレホフ
?エレーナヴァシーリー・ミハイロヴィチ1304-68トヴェーリ公

第15世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 生年は不明。1285年頃とする文献もあるが、根拠は不明ながら、妥当な数字だろう。

 1313年、父の死でスモレンスク大公位を相続。

 当時のブリャンスク公の素性ははっきりしないものの、一般的にスモレンスク系一族の出身だろうと推測されている。イヴァン・アレクサンドロヴィチがスモレンスク大公となった当時のブリャンスク公ヴァシーリーも、、1314年に跡を継いだドミートリーも、いずれも弟だったという説がある(そうではないとする説もある)。
 いずれにせよ、この頃スモレンスクはブリャンスクに宗主権を及ぼしていたらしい。

 1334年、ブリャンスク公ドミートリーがタタール軍を率いてスモレンスクに侵攻。ドミートリーがイヴァン・アレクサンドロヴィチの弟ないし従兄弟であったならば、これはスモレンスク大公位を巡る一族間の内紛ということだったのかもしれない。また、上述のように当時スモレンスクがブリャンスクに宗主権を及ぼしていたと考えられることから、スモレンスクの支配に対するブリャンスク側の反発から引き起こされたのかもしれない。
 イヴァン・アレクサンドロヴィチはスモレンスクを護り抜き、ドミートリーと講和した。

 イヴァン・アレクサンドロヴィチはやがて、スモレンスクが遠くにあることを利してタタールのくびきから逃れようと、サライへの貢納をやめる。
 1340年、ウズベク・ハーンは軍を派遣するとともに、ルーシ諸公にも従軍するよう命令。タタール軍はスモレンスク公領を攻略し、焦土として引き上げた(ただし都市スモレンスク自体は攻め落とせなかった)。

 イヴァン・アレクサンドロヴィチは、リトアニアに接近。
 1341年のゲディミナスの死後、遺児たちの間で権力闘争が繰り広げられていたが、それも1345年には終結。アルギルダスが権力を握った。
 アルギルダスと結んだイヴァン・アレクサンドロヴィチがまず目指したのが、1303年にモスクワに併合されていたモジャイスクの奪還である。他方でイヴァン・アレクサンドロヴィチは、アルギルダスを支援してリヴォニア騎士団と戦った。
 しかしキエフ・ルーシを侵食して領土を拡大しつつあったリトアニアにとっては、スモレンスクは同盟相手ではなく併合すべき存在だった。1351年にモスクワ公セミョーン傲慢公がスモレンスクに攻め込んだ際には早くもアルギルダスはイヴァン・アレクサンドロヴィチを見棄てている。
 その後両者の関係は急速に冷えていき、1355年にはスモレンスクはアルギルダスにルジェーフを奪われた。1356年にはブリャンスクもリトアニア領となっている。

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