スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ
Святослав Ольгович
ルィリスク公 князь Рыльский
生:1167
没:?
父:ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公オレーグ・スヴャトスラーヴィチ (チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)
母:アガーフィヤ (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
結婚:
& アナスタシーヤ
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
アナスタシーヤと | ||||||
? | オレーグ | クールスク | ||||
ムスティスラーフ | -1241 | ルィリスク |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。洗礼名ボリース。
父は1180年に死去。スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチはこの時点でまだ13歳だったことになるが、あるいはこの時点でルィリスクをもらったのかもしれない。
1183年、2度にわたりポーロヴェツ人遠征に従軍。
1185年、叔父イーゴリ・スヴャトスラーヴィチのポーロヴェツ人遠征に従軍。ポーロヴェツ人の捕虜となる。
その後の運命は不明。虜囚のまま死を迎えたとも、帰国して1196年にクールスク公になったとも言われるが、いずれも確たる裏付けがあるわけではない。しかし少なくとも子を残していると思われることから、あるいは従兄弟のヴラディーミル・イーゴレヴィチのようにポーロヴェツ人の虜囚となっている間にポーロヴェツ人の娘と結婚したのかもしれない。