ロマーン・イーゴレヴィチ
Роман Игоревич
プティーヴリ公 князь Путивльский (1198-1206)
ズヴェニーゴロド公 князь Звенигородский (1206-07、08-11)
ガーリチ公 князь Галицкий (1207)
生:1175
没:1211
父:ノーヴゴロド=セーヴェルスキー公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ (チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
イヴァン | プティーヴリ | |||||
コンスタンティーン | ||||||
ミハイール |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
『イーゴリ軍記』の次男。母については、『イーゴリ軍記』のヒロインとも言うべきヤロスラーヴナとする説と、先妻とする説とがある。ヤロスラーヴナであれば、彼女はガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルの娘であるので、のちにイーゴレヴィチ兄弟がガーリチを執拗に狙った理由として申し分ない。しかし年齢的には先妻が母であったと考えた方がしっくりくる。
ロマーン・イーゴレヴィチ自身は1185年のポーロヴェツ人との戦いに従軍していない。まだ幼かったのかとも思われるが、1183年の遠征には従軍しているらしい。
1198年、父がチェルニーゴフ公となり、兄ヴラディーミル・イーゴレヴィチが跡を継いでノーヴゴロド=セーヴェルスキー公となった。Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 が、ロマーン・イーゴレヴィチが1198年からプティーヴリ公であったとしているのは、この時兄を継いでプティーヴリ公になったと考えているのだろう。
ただしヴラディーミル・イーゴレヴィチはノーヴゴロド=セーヴェルスキー公になっていないとする説もある。
1205年、ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公が死去。遺児ダニイール・ロマーノヴィチはまだ幼く、ロマーン偉大公の仇敵のキエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチは、チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公、さらにイーゴレヴィチ兄弟を語らってガーリチに侵攻。しかしダニイール・ロマーノヴィチを支援するハンガリー軍に撃退された。
1206年、イーゴレヴィチ兄弟は再度ガーリチに侵攻。ダニイール・ロマーノヴィチを追ってヴラディーミルがガーリチ(都市)、ロマーンがズヴェニーゴロド、さらにはスヴャトスラーフがヴラディーミル=ヴォルィンスキーを支配することとなった。
しかし翌1207年には、ヴラディーミルとロマーンとの間に兄弟喧嘩が持ち上がる。一説によればヴラディーミルとロマーンとは異母兄弟だっとされ(即ちヴラディーミルは先妻の、ロマーンは後妻、つまりヤロスラーヴナの子)、とすれば、ロマーン・イーゴレヴィチは母からガーリチの権利を継いでいるわけで、この兄弟喧嘩の理由もそこにあったのかもしれない。
ロマーン・イーゴレヴィチはハンガリーに赴き、王アンドラーシュ2世から軍隊を借りて、ガーリチ(都市)からヴラディーミル・イーゴレヴィチを追った。ところが今度はリューリク・ロスティスラーヴィチがガーリチ=ヴォルィニ情勢に介入。息子ロスティスラーフを派遣してきた。ロマーン・イーゴレヴィチは、一旦はガーリチ市民に追われたが、やがてロスティスラーフ・リューリコヴィチを追ったガーリチ市民に再び公として迎えられた。
ところがガーリチにはハンガリーも食指を伸ばしており、ついにアンドラーシュ2世はこれを制圧。ロマーン・イーゴレヴィチは捕虜となった。
逃亡したロマーン・イーゴレヴィチはプティーヴリに帰還。同じくここに避難していたヴラディーミル・イーゴレヴィチと和解した。
1208年、ハンガリーの支配に飽きたガーリチ市民は、再びイーゴレヴィチ兄弟を招く。ハンガリー総督を追ったイーゴレヴィチ兄弟は、ガーリチを分割。即ち、ヴラディーミルがガーリチ(都市)、ロマーンがズヴェニーゴロド、スヴャトスラーフがペレムィシュリを分領とした(スヴャトスラーフは1207年にポーランドによりヴラディーミル=ヴォルィンスキーを追われていた)。
1211年、ハンガリーの支援を得たダニイール・ロマーノヴィチがガーリチに侵攻。ペレムィシュリ市民はこれを支持し、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチを捕らえた。一方ズヴェニーゴロド市民はロマーン・イーゴレヴィチを支持。攻囲されたズヴェニーゴロドには、甥イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチがポーロヴェツ人を引き連れて救援に駆け付けた。しかしハンガリー軍には抗し得ないと思ったか、ロマーン・イーゴレヴィチはズヴェニーゴロドから逃亡。その途中でハンガリー軍に捕らえられ、公が逃げ出したと知ったズヴェニーゴロド市民も降伏した。ガーリチ(都市)も屈服し、ハンガリー軍がガーリチを制圧した。
ハンガリー軍の捕虜となったロマーンとスヴャトスラーフの兄弟は、ガーリチのボヤーリンたちによって首を吊るされた。
子孫は年代記には登場しない。